第4話
その日はセレンに連れられて海へ行った。実は前からずっと泳ぎに行こうと誘われていて、運動嫌いかつ水が怖い私は断り続けていた。だが何度も誘われるのに断るのも申し訳なくなってきて、渋々首を縦に振り、せっかくならとハルも誘った。
砂浜にビーチマットを敷いて、パラソルを刺し立てる。セレンは遊ぶ気満々のようで浮き輪やボール、ゴーグル等、海水浴セットを一式準備していた。
彼女のエネルギーに付いていけるか不安に思いつつ、大人しくパラソルの下で待っていると、着替えを終えたセレンとハルが来た。
セレンは青いビキニのトップス、ハルはピンクのワンピースタイプの水着を身に着けている。
セレンはまじまじと私の全身を眺めてうん、と頷いた。
「似合ってるじゃない」
「スク水以来ですよ」
言いながら私も自分の体に視線を落とす。黒のパレオ付きのビキニ。前日にモールへ行ってセレンに選んでもらったものだ。私にファッションのセンスはないので彼女に任せた方が楽で手っ取り早かった。水着なんてプールの授業以来で、慣れない着心地にソワソワするが、似合っていると言ってくれるなら多少は我慢できる。
「手袋、そのままなの?」
普段通り私が白い手袋をはめているのを見て、ハルが聞いた。ビキニ姿に手袋というのは私の目から見てもおかしいと感じる。ただ外せない理由はもちろんあって「ええ。あまり気にしないでください」とだけ返した。
「ちゃんと泳ぎ教えられるかしら」
「溺れたらちゃんと助けてください」
「大丈夫! ハルもいるし」
「私をあてにしないで」
冷静に返すとハルは浮き輪を抱えて沖へと歩いていった。
小さな背中を追うようにセレンが私のパレオを引く。いつもの車椅子は道路へ上がる階段の側に置いていて、彼女は砂浜の上では尾鰭を上手に使って進んでいた。そのせいで頭の位置が私のおへそあたりまで低くなっている。彼女の後頭部からでも心が躍っているのが伝わってきた。
あっという間に波打ち際まで連れて行かれて、水の中へ足が沈んでいった。
「ちょ、まだ心の準備が……!」
「まだ浅瀬よ」
冷たい海水に徐々に体が埋まる。私の胸元ぐらいの深さまでくると、セレンに手を取られた。器用に尾鰭を使いプカプカ浮いているセレンが「手掴んでおくからバタ足してみて」と言い、早速水泳の授業が始まった。
足で水飛沫を上げながら少しずつ前へと進む。
「そうそう。飲み込みいいじゃない」
セレンの教え方がいいのか、思っていたよりも簡単に体の動かし方を覚えて、気づけば顔を水につけて泳いでいた。結構、筋がいいかも……と自分でも思い始めてきた矢先、セレンが突然手を離した。
「……⁉︎」
驚いてすぐに海面から顔を上げて二本の足で立った。
「離さないでくださいよ! 沈んだらどうするんですか!」
「大袈裟な。一人で泳げそうだから手離しただけよ。飲み込み早いし、あとは水に対する恐怖心がなくなったら一人で泳げるわ」
「それが一番難しいんですけどね……」
特別海にトラウマがあるわけでもないが、昔から自分の体を水に沈めることが怖くてその恐怖心を拭わずに生きてきた。そんな情けない私に浮き輪でプカプカ漂うハルが言った。
「ヒイラギはビビりすぎ。潜ってみたら意外と怖いところじゃない」
ハルの言葉にセレンもそうそう、と頷く。一番年上の私が二人に諭されるというのはあまりに格好が悪い。
覚悟を決めて目一杯息を吸うと、海中へ潜った。
木漏れ日のようにまばらに透けた光が海面から降り注ぐ。澄んだ青の中でカーテン状に広がる光は一緒に潜ったセレンを包んでいた。
セレンの長い髪がフワリと広がって、柔らかく舞う。尾鰭の先端も絹布のようにうねって表情を変え続けていた。くるりとその場で体を返し、彼女は水中を踊るように漂っていた。
お伽話に出てくる人魚さながら……いや、きっとそれ以上の美しさで、このまま彼女に海底へ引き摺り込まれたとしても本望だと思ってしまった。
次第に苦しくなる呼吸。少しでも長く彼女の泳ぐ姿を目に焼き付けたくてギリギリまで耐え、限界に達すると一気に上へ浮上した。
「ぷはあっ! はあ……はあ……」
「どう? そんなに怖くないでしょ?」
セレンも顔を出して私に微笑みかけた。
「綺麗でした。とても」
自然と出た言葉は海中での景色に対してのものか、そこで見た人魚に対してのものか、自分でも分からなかった。
ただセレンは前者と受け取ったようで
「よかった」
ニッと口角を上げてそう言った。
◆
お昼になり、私たちは海から上がってパラソルの下でお弁当を食べていた。バスケットの中には彩りのいいサンドイッチがぎっしり詰められている。朝からセレンが張り切って作ってくれたもので、カツサンドやツナ、ハムチーズにフルーツサンドと種類も様々なところを見るに、私とビキニを買いに行ってから心待ちにしてたのがよく分かる。
潮風に撫でられながらひと息ついていると「あれ。もう水ない……近くに自販機あったっけ?」セレンが空になった水筒を望遠鏡のように覗き込みながら言った。
「この辺りにはない」
「うーん、仕方ないわね。そんなに遠くないし家まで行って取ってくる」
「私が取ってきますよ」
「いいって。体ヘトヘトでしょ? 年寄りは休んでなさい」
「まだアラサー手前……」
「もう手前まで来てるじゃない」
「うぐっ……」
私に強烈なひと言を浴びせるとセレンは自宅に戻っていった。
取り残された私とハルは水平線をぼんやりと眺めた。船が通るわけでも、他に人が泳いでいるわけでもない沖はとても退屈でどこか安心する。遥か遠くで、白い点のようなものがパタパタと翼を動かしてどこかへ消えていく。
「カモメ」
ハルには見えたようでポツリと呟いた。
「前から聞きたかったんですが、ハルの翼って空を飛べたりするんですか?」
「無理。家のベランダからジャンプしてパタパタさせたけど普通に落ちた」
「思い切りが良すぎてちょっと心配になるんですが……。セレンは鰭が生えて泳げるのに、翼が生えて飛べないというのは生え損というか、スッキリしませんね」
「セレンは元々運動神経いいから上手く使いこなせてるだけ。本来、病はただ不便だったり、邪魔なもの。私なんて物を持つのもひと苦労」
病と言われているだけあって空が飛べたり、自由に泳げたりといった特殊能力チックなものではないらしい。仮にそんな便利なものだったら祝福や恩恵と呼ばれていただろう。
「でも仕方ない。これは自分で課したものだから」
翼で両膝を抱えるとハルは水平線を眺めたまま、滔々と語り出した。
「絵を描いてたの」
「絵?」
「うん。物心ついた時から好きでずっと描いて、描いて、描き続けて……命削るくらい描いた。賞も沢山取って、色んな大人に褒められて、自分でも天才だと思った。今でも思ってる。でもそうやって絵のことばっか考えてたら、気づいた時には友達が一人もいなかった。別にそれでもよかったよ。自分の絵を愛でてる方が楽で楽しくて幸せだったから。けどね、そうやって自分の世界に閉じこもってたら、周りの人たちはそれを壊そうとする。……人生で一番上手く描けた絵をいつも持ち歩いてた。ずっとその絵を眺めてたくて、学校にも毎日持っていった。そしたら同じクラスの子達がバカにして目の前で絵を破いたの。私は教室でみんなが見てる前で鼻水垂らして泣き喚いて……そんな自分が惨めで嫌いになった。絵を破かれたことよりも、絵を破かれて泣いてしまう自分が恥ずかしくてみっともなくて、それがショックだった。きっとみんなは泣いたりしない。どれだけ自分が大切に作ってきたものでも、それが壊された時、怒ったり泣いたりするのは心の中とか、自分の家に帰ってからで、表になんか出さない。なのに私は気持ちを押し殺せなかった。絵一枚で泣いちゃう自分が嫌で、なんでこんなに弱いのって、みんなと違うのって、ずっと苦しくて気持ち悪くて、もう絵なんか描きたくないって言っちゃった。それしたら、ここにいた。もう描けない手になって、この町に突っ立ってた」
「今はどうですか? 絵、描きたくないですか?」
「描きたい。でも大事なものにしたくない。もう苦しいのはイヤ」
「描いたらいい。あなたの悩みは絵に関することじゃない。みんなの前で泣いてしまうこと、その恥ずかしさに耐えきれない自分の弱さについてです」
「それは自分でも分かってる。でも強くなれる方法なんか私には分からない。だから大好きな物を遠ざけるのが一番安全。もしかしてヒイラギは知ってるの? 強くなれる方法」
「知りません」
「使えない」
「そういうこと言うから友達いないんですよ」
「……ヒイラギ嫌い」
「私はハルのこと好きです」
「そういうのがもっと嫌い。キショい」
ハルは顔を顰めて心底不快そうな反応をした。……そこまで嫌悪しなくても。
「キモいくらいで止めておいてください。……話を戻しますけど、強くなる方法なんて知っていたら人類皆、涙と無縁の生活送ってますよ。でも今日もどこかで誰かは泣いています。強くなるなんてできっこないんです」
「じゃあどうしたらいいの? 私は人前で泣き喚くような、カッコ悪い人になりたくないよ」
「開き直るしかない。自分はこんな惨めな人間だと」
私の言葉にハルは納得いかないと言いたげなため息をついた。要はそのままでいろと言われたのだから、そうなるのも無理はない。
「大体、逆効果だと思いますよ、自分の好きな物と距離を置くなんて。泣きたい時こそ、そういう物を頼るんですから。甘いお菓子を食べたり、体を動かしたり、昼寝をしたり、好きな人に慰めてもらったり。だから開き直って泣きたい時は素直に泣いて、慰めてもらいましょう。新しい絵に集中していれば涙も止まるんじゃないでしょうか」
「そうかな」
「そうですよ。私もよく税金で泣いた日は近所のスイーツパーラーに行きます」
「そんなのと私の涙を同列にしないでほしい」
少し笑いながら、ハルはギュッと自分の膝を抱きしめた。
「この前ヒイラギが言ってたことずっと考えてた。この町は救済をくれるのかって。この町は優しくて傷つくことなんかひとつもないけど、やっぱり絵が描きたい。大好きなものを我慢するのってずっと苦しいよ……」
絞り出すような声に、私の手は無意識にハルの頭に伸びていた。優しく撫でながら柔らかい声で慎重に彼女に言葉をかける。
「酷なことを言いますが、絵を描いてくれませんか? 外の優しくない世界に押し出してでも、あなたの絵が見たい」
ハルは膝に顔を埋めたままで私に大人しく撫でられていた。そして、小さく肩を振るわせると静かに啜り泣き始める。私は彼女の頭に手を乗せたまま泣き止むまで何も言わず側にいた。
しばらくすると涙を流し終えたのかハルはスッと立ち上がった。
「もう帰る」
翼で目を擦って、ハルは真っ直ぐに水平線を見た。
セレンは帰ってきていないし、時間も午後になったばかりだ。まだまだ遊ぶのはこれからというタイミングで放った『帰る』というセリフから、彼女の意思を汲み取った。
「ひとりで帰れますか?」
「うん」
座ったままの私に頷いて見せると、ハルは最後に子供らしい満面の笑みを浮かべた。
「セレンのこと、よろしくね」
◆
「ただいまー」
ペットボトルを小脇に抱えて人魚がパラソルの下へ帰ってきた。
「おかえりなさい」
そう言った私を見て、セレンは周囲をキョロキョロと見回す。
「……ハルは? トイレにでも行った?」
居たはずのもう一人の姿が見えなくなって首を傾げるセレン。
私はどう話を切り出そうか、少し迷ってすぐに答えられなかった。聞いても答えない私にセレンはさらに不思議そうな顔をして、「ヒイラギ?」もう一度聞いた。
「ハルは、帰りました」
「え、急に? なんか用事でもあったの?」
「セレン」
「ん?」
「ハルはもう外へ出ることを決めました」
「……え」
「あなたはどうしますか」
私が問うとセレンの瞳が大きく揺らいだ。一瞬口を開いて何かを言おうとして、でもキュッと唇を締めて……それを何度か繰り返すセレンは自分でもどんな感情なのか分かっていないようだった。
そしてたっぷりと間が開くと、ゆっくりと息を吐いた。
「なーんでみんないきなり居なくなっちゃうのかしら」
呆れたようにセレンは言う。その目はどこか乾いていて、痛々しいほど彼女の寂しさが伝わった。
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