ネロンというご婦人
壁には、騎士階級がよく着る礼服……の中でも、とりわけ上等なものが飾られており……。
その周囲には、使い古された騎士用の長剣や、馬上槍試合で用いられる盾や槍などもかけられていた。
極めつけは、こちらを睨むように立ち尽くす空の甲冑だろう。
客間の隅に飾られたそれは、もし、不埒な目論見でこの屋敷に入ったのなら……即座に動き出し、壁の剣を引き抜いて切りかかってきそうな雰囲気がある。
ふうむ、前世では当然縁がなかったし、転生してからも、文官系法服貴族家で育ったから、やはり縁はなかったが……。
こう、よく使い込まれた武具というのは、使い込まれた包丁に通じる風格を漂わせるな。
持ち主の魂というものが、人格ごと乗り移ったような気配を感じられてしまうのだ。
見てみると、甲冑には幾度も修繕を受けた痕跡があるし、壁に立てかけられた剣は、明らかに美術品ではなく、殺傷を目的として鍛えられた業物であることが、鞘越しに伝わった。
おそらく、何度も実戦というものを経験してきた品々に違いない。
「ごめんなさいね。
物々しい雰囲気で」
ティーセットの載ったカートを押したネロン婦人が、そう言って笑いかけてくる。
彼女は、アポなし訪問客である俺たちごときのために、わざわざお茶を淹れに行ってくれていたのだ。
「このハーブティーは、こだわった品なの。
お口に合ったらいいのだけど……」
言いながらお茶を淹れる手際は、なるほど手慣れたものであった。
ティーポットを軽く水平に回して茶の濃度を均一化しているし、見た感じ、ティーカップもあらかじめお湯で温めておいたようである。
この分だと、向こうでポットにお湯を注いだ際も、努めて静かにこれを行ったことだろう。
前世でフィットネスカフェを開業した時、通常のドリンクについても、ひとしきり学んだ俺だ。そこそこ詳しい。
「頂きます」
「あ、ありがとうございます」
「ありがとう、ネロンさん!」
俺とヤナとクロ少年が、それぞれなりの言葉で感謝を告げ、お茶を頂く。
ネロン婦人の淹れてくれたハーブティーは、カップへ口をつける前から、かぐわしき香りで俺を魅了していたが……。
実際に飲んでみると、やはり、これは――美味い。
メインにしているのは、ラベンダーだろうな。
すがすがしく、それでいて可憐さを感じる味わい……。
そこに、ルイボスなどを脇役として配合し、味と香りへ重層感を生み出しているのである。
うん、これは茶葉の保管もいいな。
本当にお茶というものが好きで、心からティータイムを楽しんでいる人間の仕事だ。
「……美味しい!」
「おれ、お茶の味なんて分かることないと思ってたけど、ネロンさんの淹れてくれるお茶が最高だってことは、よく分かるよ」
その証拠に、ヤナとクロ少年が、心から安らいだ顔でそう告げた。
「いや、本当に大したものです。
これは、独学で?」
「いえ、あたしのお婆様が、とてもお茶の好きな人でね。それで、教わったの。
でも、そのお婆様も、そのまたお婆様から教わったと言っていたから、先祖代々の味と言ってよいのかしら?」
尋ねる俺に対し、カップを手にしたネロン婦人が、少し遠い目をしてみせる。
「主人が生きていた頃は、よくこうしてお茶を淹れたものだわ。
あの人、わたしの淹れたお茶を一日一回は飲まないと気が済まないと言って、水筒へ入れて遠征先まで持っていこうとしたのよ。
おかしいでしょ? もつわけないのに」
そう語るネロン婦人の表情は、とても嬉しそうで……。
もう戻ることはできない過去を、心から懐かしんでいることが伺えた。
「失礼ですが、ご主人は?
見たところ、騎士様であったようですが?」
自身、分かりきっている質問であると思いながら、尋ねる。
「二年ほど前にね。
眠るように……。
あれほど元気な人でも、死ぬ時はあっさりしたものなのね。
でも、別に戦死したとかではないのよ。
本当に、何かが途切れたみたいに……。
あの人らしい、終わり方だった」
「そうですか……」
ちょっとホッとしながら、答えた。
治安のいいこの国であるが、そこは何といっても中世世界。
時に盗賊などが出ることはあるし、その討伐に騎士団が出撃するようなことはある。
だから、戦いの中で力尽きたりしたんじゃないかと、心配したんだが……。
どうやら、立派な最期を遂げられたらしい。
ホッとしたところで、ついでにもう一つ。
「あなたは、獣人に対しても分け隔てなく接されているようですが、それはご主人の影響ですか?」
「そうなの」
俺の問いかけに、ネロン婦人が朗らかに笑う。
「以前、あの人が山賊退治に出向いた時……。
どうしても、賊の潜伏先が分からなくて、任務を諦めそうになったことがあったの。
それを助けたのが、地元で暮らす獣人。
あの人は言ってたわ。
人の耳があるかないか、獣の耳があるかないか……。
そんなことで相手を判断するのは、何と愚かなのだろうって」
「立派な方だったのですね」
うんうんとうなずくヤナやクロ少年をよそに、俺は答える。
さて、これで身の内に関するヒヤリングは終えられた。
ここからは、商売の話をするべきだろう。
前置きを終え、さてと身を固めたところで、ネロン婦人がぽんと手を打つ。
「そうだ。
三人共、お腹は減ってないかしら?
もし、よかったら、クッキーを焼くからご馳走になっていってね」
あらら、間を外されたな。
が、これはある意味、手際の程を知るチャンスだ。
「いいのか!?」
「そんな、申し訳ないです」
「――よろしければ」
クロ少年とヤナを軽く手で制しつつ、提案する。
「私たちにも、クッキー作りをお手伝いさせて頂けませんか?
ご馳走になってばかりというのも、なんですし」
「あら、いいの?」
ニコニコと笑いながら、ネロン婦人が答えた。
「もちろん、いいわよ。
皆でお菓子作りなんて、いつ以来かしら?」
にこやかに笑うネロン婦人と共に……。
俺たちのお菓子作りが始まった。
--
前世において、俺は料亭の次男坊であり……。
得意としているのは、和食である。
が、それ以外が作れないのかといえば、そんなことはない。
焼き菓子の一つや二つ、当然ながら修めていた。
その視点から見ると、やはりネロン婦人の手際は大したものだ。
特に、薪を使ったオーブンの火調整だな。
こればかりは、俺も前世での経験を活かせる分野ではなく、こんがりと綺麗な焼き目を付けて焼き上げたのは賞賛できる。
「さあ、頂きましょうか」
客間に場所を戻し、お茶会の再開だ。
「頂きまーす!」
「頂きます」
あまり役には立たなかったクロ少年と、慣れないながらも頑張って調理に参加したヤナが、早速焼き立てのクッキーへとかじりつく。
「――美味い!」
「美味しい!」
そして、子供らしい笑顔でその味を讃えた。
クッキーっていうのは、刺し身みたいなもので、焼き上がりからどんどんと味は落ちていく。
焼き立てのそれ……しかも、自分たちが調理へ加わったものともなれば、格別だろう。
「いや、実に美味い」
俺自身も、この美味を堪能する。
前世の中世でどうだったかは知らないが、この世界、この国において、砂糖はそれなりに流通していた。
が、感覚的には、日本円でキロ五千円くらいってところかな。
おいそれと手が出せる食材ではない。
そんなものがふんだんに入っているわけで、金銭的にも幸せを感じられる味である。
「それにしても、ジンドーさんだったかしら?
あなた、お菓子作りがお上手なのね?」
「見様見真似ですよ。
それより、本題なのですが……。
こちらにいるクロから、お店を開いてみたいのだと伺っています」
クッキーから意識を戻し、ようやく本題の質問。
これに対し、ネロン婦人は笑顔で目をすぼめた。
「ええ、そうなの。
あたしたち夫婦は子供に萌まれず、主人にも先立たれて暇を持て余してしまって……。
趣味を、仕事にできないかなって」
「なるほど……」
テーブルの上で、手を組む。
「ちなみに、お店を開くとして、どのような店にするつもりで?」
「そうね……。
落ち着ける上品な空間で、あたしの淹れたお茶を飲みながらゆっくりくつろいでもらえるような……。
そういうお店にしたいわ」
「なるほどですね」
うんうんとうなずく俺だ。
事前に聞いていた話をあらためて聞いたわけで、ここから導き出せた答えも一緒である。
すなわち……。
「ネロンさん……。
やめませんか? お店開くの」
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