遠雷

六番

遠雷

 特に興味を引く番組もないのでテレビを消すと、ワンルームの室内はそぼ降る夜雨の音だけが残った。先ほど見た天気予報によると、どうやらこの雨は明け方まで続き、場所によっては雷を伴う土砂降りになるらしい。

「終電までには帰るよ」

 数時間前の彼女からのメッセージをじっとりと睨みつける。わかった、とだけ返したわたしのメッセージを最後にそのやり取りは途絶えていた。彼女が部屋を出る前に使っていたジャスミンの香水の残り香を感じながら、わたしは深呼吸をする。今宵、これを何度繰り返しているだろうか。

 時計を確認するたびに不安でざらついた心が軋む。彼女が参加している飲み会の場所、その最寄駅の時刻表は調べてある。そろそろ店を出ないと最終電車に間に合わなくなってしまう時間だ。無意識の内に電話の発信ボタンへ指が伸び、すんでのところで引っ込める。

 わたしの恋人は束縛や干渉を忌み嫌う。帰宅の催促などもってのほかだ。そのくせ、自分の欲求は無遠慮にぶつけてくるけれど、それを悪びれる様子は一度も見せたことがない。

 今日だって久しぶりにお互いの休日が重なったのに、彼女は「だるいから」と無気力を隠すことなく告げて日中のほとんどを眠りこけた。そして、わたしが夕食の準備を始めようとしたときにようやく起きたかと思えば、職場の同僚との飲み会にしれっと出かけていったのだった。

 気にしていない、と言うと嘘になる。しかし、彼女の恋人としてわたしはそれを容認するしかないのだ。

 彼女はわたしに深く愛されているのをよく理解している。それはつまり、「わたしが彼女のことを熟知している」というのを把握しているということだ。だからこそ、彼女は安心してわたしに甘えられる。

 彼女のわたしに対する態度は悪く言えば「勝手気儘」だけれど、わたしだけに見せるその素行こそが愛の発現に他ならない。わたしはそれに全身全霊で応えて、彼女の理想とする恋人であり続けたいのだ。


 ソファに横になり、瞳を閉じる。気付けば雨音は大粒を感じさせる強さとなっていた。

 そういえば、彼女は傘を持っていったのだろうか。胸騒ぎを覚えて思わず眉間に力が入る。

 できることならば傘を届けに行きたいけれど、そんな提案は間違いなく拒否される。無断で行くのも、行き違いになってしまったら最悪だ。無性に駆け出したい気持ちを抑えるために、わたしは瞼を更にきつく瞑った。


 彼女がわたしを置いて飲みに行くのはこれが初めてではない。お酒もおしゃべりも大好物なので、ことあるごとに友人や同僚と連れ立って飲み歩いているのだ。しかし、これまでに酔い潰れたり朝帰りをしてきたことは一度も無く、彼女もそれをよく自慢してくる。

 それでも、彼女がこの部屋を出ていく度に、もう二度と帰ってこないかもしれないという底知れぬ恐怖がわたしを襲う。ついていきたい、といじらしく言えるような図々しさはわたしには無かった。下戸も根暗も自覚しているし、そもそも彼女がそんなセリフを望むはずはないのだ。

 彼女の容姿は贔屓目なしでも抜群に良い。そして、人前に於いては朗らかで竹を割ったような性格みたいに振る舞う。老若男女を問わず魅了する人たらしだ。

 今日もきっと、多くの人に囲まれながら満面の笑顔を振りまいているのだろう。わたしではない人に向けられたその表情を想像すると、もどかしさが募って顔を顰めてしまう。

 恋人だからといって彼女を独占していいわけじゃない。それを弁えてこそ愛を享受するに相応しい。しかし、それを頭で理解していても、心も体も彼女を絶えず求めてしまう。わたしを思い煩わせるのも、自身を律するための動機も、全ては彼女からの愛に起因している。


 猛獣の唸り声のような雷鳴が聞こえ、誘われるように窓際へ近寄る。カーテンの隙間から窓を覗くと、降りしきる雨の中で建物たちが静かに佇んでいた。そして、その影から垣間見る空に、青白い閃光が不規則な間隔で何度か瞬いた。それが彼女のいるであろう方角と気付き、わたしの心はにわかに波打ちはじめる。

 最終電車の時間は過ぎているけれど返信はいまだに無い。いよいよ今日こそ帰ってこないのかもしれない。今頃、雷に怯えて身を寄せ合っているのだろうか。それとも、悪天候を口実に二人きりになれる場所を探し求めているのか。いずれにせよ、その隣にいる誰かはわたしではない。しかし、彼女がどうあっても、今のわたしが為すべきなのは彼女の帰りを黙ってただ待つことだ。

 わたしは再び目を閉じた。忌々しい妄想を断ち切るため、外の様子に耳をそばだてる。端然とした雨声の中、爆ぜるような遠雷の音が繰り返し響いた。


 不意に鍵が開く音で意識は急速に覚醒し、わたしは飛び起きた。

 ドアが開くと同時に「ただいま」という愛しい人の声。熱を帯びた血気がわたしの全身を駆け巡り、胸の鼓動を高鳴らせる。

 玄関で傘をしまっている彼女に駆け寄り、顔を胸に埋める。少し湿った黒いブラウスから仄かに感じる、ジャスミンの香水の匂い。安堵したわたしの目から、温かい涙が溢れた。

「そんなに雷が怖かったの?」

 わたしの震える肩を撫でながら彼女が小さく笑った。そして、視線を交わし、唇を重ねると、わたしは自分が今まで一体何を恐れていたのかなど、まるでわからなくなってしまった。

 閉じたドアの向こうでは、地面を叩く雨粒の音が厳として鳴り響いている。それにかき消される程度の声で、わたしは呟く。

 そばにいてくれれば何も怖くないのに、と。


 了

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遠雷 六番 @6b4n

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