第6話 楽しんでやってくれ

「さっきの婆さん、俺のダチのおっかさんでな。昔からちょくちょく世話になっていた人だ」


 事務所に入ってカウンターのスツールに腰掛けたみどりに、コーヒーが入った紙コップを差し出しながら北岡が苦笑した。今日のコーヒーにはスティックシュガーと、細い木製のマドラーが添えられていた。


「友達の、お母さんですか」


 北岡の言葉に、軽く首を傾げる翠。あのクルマは委託販売だと聞いていたが、その委託者が先程の老婆だったということなのか。


「ああ。そのダチ、タカシってヤツだったんだが……三年ほど前に病気で死んじまってな」


「えっ?」


「俺なんかとは正反対の、真面目で優等生なヤツだったんだが、お互いに不思議とウマが合ってな……高校の頃からの付き合いだったよ」


 そう言いながら、二本目のタバコを口にくわえて火を付ける北岡。若干眉をしかめた翠の様子に気付いたのか、紫煙は横に吐き出した。


「で、カプチーノあのクルマはタカシのものだったんだが、おっかさん、なかなか手放す気にはなれなかったらしい……とはいえ、一人息子が大事にしていたクルマが乗り手もいないまま、ただ朽ち果てていくだけってのも忍びないからっていうんで、いよいよ売りに出す腹を決めたって訳さ」


「……」


「ただ、同じ売りに出すにしても、どうせなら息子のクルマを大事にしてくれる人に売りたい。それがおっかさんの希望だった。だから、俺みたいなヤツのところに委託販売の話が回ってきて、さっきみたいにお嬢ちゃんに根掘り葉掘りと質問をしていた」


「そうでしたか」


 紙コップの中身にスティックシュガーを入れ、軽くマドラーでかき混ぜた翠は、まだ湯気を立てている漆黒の液体にそっと口をつける。


「その隆さんって人、奥さんや子供さんはおられなかったんですか?」


 持ち主が亡くなっても、他にあのクルマに乗る人はいなかったのだろうか――何気ない翠の問いに、北岡は小さく喉を鳴らす。


「ククク……それがまた因果なもんでな。生まれも育ちも良くて、そこそこ見栄えもしたってのに、なぜか女っ気はまるっきり無かったよ。アイツ自身、クルマが恋人みたいなもんだって言っていたぐらいだった」


「そう言う北岡さんは?」


「カミさんは随分前に、子供を連れて出て行ったよ。アンタみたいなクルマバカとは付き合いきれないって、な」


 若干の皮肉を込めた問いに、まさか答えが返ってくるとは思ってもいなかった翠は、内心驚いた。だが、北岡の態度は飄々としたものだった。


「そんなクルマバカから見ても、あのおっかさんから見ても、お嬢ちゃんが今まで口にした言葉で一つ、気になったことがある」


 そう言いながら再び紫煙を吐き出す北岡の目は、どこか遠くを見ているようだった。


「あのクルマが側に居てくれたら、自分の人生ももっと楽しくなりそうな気がする……タカシの奴も、常々同じ事を言っていたよ。そして病に倒れてからは、あのクルマに乗れないことをちょくちょく悔やんでいた」


「……」


「それを思うと、あのクルマがお嬢ちゃんを呼んでいたっていうのは、あながち間違いでもないのかもって思ってな……まあ、いい歳こいたおっさんの戯言たわごとと思って聞き流してくれればいいさ」


 そして北岡は吸いかけのタバコの火を灰皿でもみ消し、事務所の書棚の一つから一通の書類を取り出して翠の前に置く。車の売買契約書だった。


「初めてクルマを買うっていうお嬢ちゃんに、こんな重い話をするのも何だとは思うが……あのクルマを買ってくれる相手は、どうせならお嬢ちゃんみたいな奴の方が良い。俺もタカシのおっかさんも、その点において意見は同じだ」


「えっと、あの」


 飲みかけのコーヒーをテーブルに置いて慌てふためく翠に、北岡はぼそりと言った。


「あのクルマ、お嬢ちゃんの相棒にしてやってくれないか……あのクルマがお嬢ちゃんの人生を楽しくしてくれるかもってのは、きっと正解だ。カプチーノってのは、そういうたぐいのクルマだからな。だから」


「……だから?」


 恐る恐る尋ねる翠に、北岡はニヤリと笑った。


「だから、タカシの分まで、あのクルマとの時間を楽しんでやってくれ」

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