第5話 訳が分かりません

「ふうん……この子がたかしの車を買いたいっていう人かい」


 土曜日の昼下がりの北岡自動車の店先で、しげしげとみどりを見つめる一人の老婆。


 結局、父は娘がクルマを買うことについて特段の反対をせず、娘が存外に頑固であることを知る母はその時点で諦めモードに入ったため、翠が思い切って北岡に電話をしたのが一週間前のこと。自分自身、クルマを買うのが初めてだったために、とても緊張したことは覚えている。


 だが、北岡からは「少し日程調整が必要だから」と言われ、改めて店を訪れることになったのが今日だった。一体何のための日程調整だったのかは、北岡に電話をかけた当時の翠には分からなかった。


 ただ、今日までの間、通勤時に店の前を何度も通っていたのだが、それまで店先に置かれていたカプチーノが姿を消していたことは、翠を少し不安にさせていた。


 ひょっとしたら、先にあのクルマを買った人がいたのかも知れない――そう思うとおちおち仕事も手に付かなかった翠だったが、今日までの間にそれを北岡へ尋ねる勇気は、翠にはなかった。


「あの、北岡さん……こちらの方は?」


 おずおずと尋ねる翠に、北岡がぼそりと答える。


「あのカプチーノの売主さんだよ。アイツを買いたいって人が現れたら、一度会わせて欲しいって言われていたんだ」


 そう言われて、翠も老婆を見返す。小柄だが背筋は年齢の割にしゃんとした、長い白髪をきっちりと結い上げた女性。翠を値踏みするように見る目つきは、やや鋭い。役所勤めの経験上、機嫌を損ねると厄介なタイプだと思った。


「お嬢ちゃん、名前は?」


 老婆が突然、翠に尋ねた。


「えっと、あの……谷川翠です」


「ふうん。アンタ、学生さんかい?」


「いえ、この街の役場で働いています」


「そうかい。で、アンタ、どうしてあのクルマが欲しくなったんだい?」


 ただクルマを一台買うだけなのに、どうしてこんなに根掘り葉掘りと質問をされるのだろうか――内心ではややうんざりしながらも、出来るだけ表情には出さずに翠は答えた。


「そうですね……ちょっと変に思われるかも知れませんが、あのクルマが私を呼んでいるような気がしたんです。それに、あのクルマが側にいてくれたら、私の人生も楽しくなるんじゃないかなって思ったから、でしょうか」


 実際、ここ一週間で翠は、深緑色の宝石のようなあのクルマに夢中になりつつあった。今までに夢中になるものなどほとんどなかった翠からしてみれば、それだけでも自分にとって大きな変化だと感じていた。


 翠の言葉に、老婆は少しの間無言だったが、ややあって小さくため息をついた。


「そうかい。色々と聞いて悪かったね……修坊しゅうぼう、アタシゃこれで失礼するわ。後は任せたよ」


 それだけを言い残して、老婆はさっさと店を出て行ってしまった。その後ろ姿を呆気にとられて見送った翠だったが、北岡は胸ポケットからタバコを一本取りだして火を付け、紫煙を吐き出しながらニヤリと笑った。


「良かったな、お嬢ちゃん……無事に商談成立だ」


「あの……一体何だったんですか、訳が分かりません」


 困惑と若干の抗議を込めた翠の視線を事もなげに受け流すと、北岡はいつぞやの時のように右手の人差し指を上に向けて、事務所の方へくいくいと動かした。

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