第2話 はじめての体験

「あの、こんにちは」


 そう口にしながら、みどりはおずおずと店の敷地の中に入る。


 どうしても気になっていたクルマを見たいがために、翠はその中古車屋を訪れる決心をした。特にこれといった趣味も楽しみもなかった翠にしてみれば、それなりの勇気が必要な行為だった。


 翠の姿に気がついて店の奥にある事務所から出てきたのは、背が高くて細身の、紺色のツナギに身を包んだ少し気難しそうな中年の男だった。


「いらっしゃい」


「あの、その……そこにある緑色のクルマを、見せて欲しいのですが」


 緊張のあまりにしどろもどろだった翠をじろりと見た男は「ちょっと待ってて」とだけ言って、事務所へと戻っていく。


 男は程なくして、小さな白いタグがついたクルマのキーを持ってやってきた。


「どうぞ」


 男はクルマのドアを開け、ダッシュボードに置かれていた大きな値札のボードを抜き取り、ハンドルの右側にあるキーシリンダーにキーを差し込んで言った。


 だが翠には、そこからどうして良いのかがさっぱり分からなかった。


「あー、お嬢ちゃん……ひょっとしてクルマ屋に来るのは初めて?」


「えっと、あの……はい、そうです」


 辛うじてそう答えた翠に、男はバリバリと右手で頭を掻いてから、初めて少しだけ唇の端を上げて見せた。


「クルマ屋初体験のお嬢ちゃんが、こいつを見たいとはねぇ……まあいいや。とりあえず、シートに座ってみなよ」


 そう言われて、翠はようやくクルマの側に近寄ってみた。車高が低いため、茶室のにじり口をくぐるようにして何とかクルマに乗り込む。


「……わあ」


 翠の口から、無意識に声が出た。教習所で乗った車とも、実家にあるクルマとも違う、異様に低い視点。開けっぱなしのドアから軽く手を伸ばすと、シートに座ったままでも地面が触れそうだ。


 二人乗りの車内は非常に狭かったが、不思議と居心地は悪くない。何もかもが、少し手を伸ばせば触れられる位置にある。


「って、あれっ?」


「どうしたの」


 クルマの屋根に軽く手をかけ、かがみ込むようにして車内をのぞき込んでくる男。その息のタバコ臭さに少しだけ眉根をしかめつつ、困惑した翠が答えた。


「シフトレバーが見たことの無い形をしています。それに、足下にペダルが三つもあって」


「そりゃそうだろう。こいつ、MTマニュアル車なんだから」


「……えっ」


 硬直する翠に、男は半ば呆れたように言った。


「ひょっとしてお嬢ちゃん、ATオートマ限定か?」


「……はい」


 軽くうなだれる翠に、男は深いため息をつく。


「それじゃあ、こいつに乗るのは無理だな。諦めな」


「そんな!」


 今にも泣き出しそうになった翠を見て、怪訝な顔をする男。


「別にこいつじゃなくても、他に便利で使い勝手が良さそうな車なんて山ほどあるだろうに……なんでそんな顔をする」


 男の問いに、少しの間無言になる翠。


「……わかりません」


「何?」


「でも、何故かは分からないんですけれども、この子が良いって感じたんです。毎日この子の前を通って仕事に行く時、ずっとこの子に呼ばれているような気がして」


 男はしばらくの間、呆気にとられた顔をしていたが、ややあってくくっと喉を鳴らした。


「お嬢ちゃん、仕事は何をやっているの」


「この街の役所で働いています」


「ふうん」


 男は少し考えてから、右手の人差し指を上に向けて、くいくいと動かした。


「ちょっと事務所なかで話をしようか……ついてきな」

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