第80話 トルココーヒー
草薙が招き入れてくれた団地の一室は、小熊が羨むような生活空間だった。
おそらくは夫婦向けと思われる2LDKの物件をリフォームしたらしく、淡い水色の壁紙が貼られ、十二畳ほどもあるリビングスペースには、部屋の壁と調和したペルシャ織りのシルクカーペットが敷かれていた。
来客は床の上に座る形式らしく、靴を脱いで部屋に入った小熊と南海、後藤は大きな麻布のクッションを勧められた。
どこかオリエンタルな雰囲気を感じる部屋の居心地を一番良くしているのは、部屋の隅に置かれた物だと思った。
栗材らしき分厚い木の上に置かれたのは、紫色のホンダ・ダックスだった。
ダックスは部屋の内装に調和していた。小熊は高校の時、スーパーカブで同じような事をしたが、充分なスペースがあると思った部屋はバイクを入れると意外と狭く。キッチンやトイレに行くたびにミラーやステップにぶつかった記憶がある。
団地の一室に置かれたダックスは、車体がカブより一回り小さい事、何よりリビングの広さが小熊が高校生に時に住んでいた集合住宅の倍以上あることもあって、ダックスの名前通り躾のいい小型犬のように、主人の邪魔をせず静かに命令を待っていた。
小熊は横目で南海を見た。南海は今まで探し、調べ回っていた紫のバイクを目の前にして、驚きの表情を浮かべていた。
後藤はといえば絨毯の上に中腰になって、窓の外を見ている。誰か飛び降りる奴でも居ないものかと思っているのかもしれない。
まるでベドウィンの集会のように車座になった小熊たちのところに、部屋の主である草薙が金色の茶器を乗せたステンレスのトレイを持ってやってきた。
「小熊さんがトルコ風のコーヒーはお好きですか?」
小熊はコーヒーポットから発する濃厚な香りを楽しみながら答えた。
「初めて飲みます。でも草薙さんが淹れてくれるコーヒーならきっと美味しいんでしょう」
草薙は微笑んでトルコ石を思わせる水色の小さなマグカップに濃いコーヒーを注ぐと、驚くほど大量の砂糖を入れ、スプーンでそっとかき回した。日本の茶道に劣らぬほど丁寧で流麗な仕草。
ローテーブルの類の見当たらないリビングで、カーペットの上にコーヒーカップを置いた。
これが大手インテリア店で見かけるような分厚いカーペットなら、カップをひっくり返さないか気になるところだが、どこか日本の畳を思わせるやや硬めのシルクカーペットの上では、そうするのが最も自然であるかのように安定していた。
草薙は南海と後藤に向き直って言った。
「吉村さんと後藤主任もトルココーヒーでよろしいですか?」
いますぐ紫のバイクについて聞きたそうな様子でやや前のめりになっていた南海は、コーヒーの香りを嗅いで落ち着いたらしく、上品に居住まいを正しながら言った。
「ターキッシュ・コーヒーは以前から一度飲んでみたいと思っていました。是非ご馳走になりたいです」
後藤はというと敷布団の半分ほどもある分厚い麻布のクッションの上で半ば寝転ぶような恰好になりながら言った。
「前に草薙がうちまで起こしに来た時に淹れてくれた、臭くてしょっぱい茶が飲みたい。あとこの家は客に茶菓子も出さないのか?」
もしもこれが紫のバイクについて話を聞かせてもらう席でなければ、この場に南海が居なければ。この礼儀という言葉を知らない女を四階のベランダから吊るしてやろうと思ったが、草薙が先ほどから来客に抱いていた微かな警戒心が、たった今消えて無くなったような笑顔に免じて今回だけは勘弁してやることにした。
「バター茶ですね? すぐにご用意します」
他人への感謝も敬意も無い女が、濃茶の前には主菓子を頂くという茶会のプロトコルを知っているなんて事は、まずありえない。
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