第79話 紫水晶
後藤と小熊、南海は薄暗い廊下を歩いた。
南海はエレベーター内で後藤と交わした短い会話で、自分が何よりも好きだと思っていた夜の世界が持つ本質の一端を後藤に教えられて、やや放心状態だった。
南海の背中に手を添えた小熊は、きっと後藤が今まで自分の目で見て、見えていたのに見ないふりをしていた物、それがまるで悪意も下卑た欲望も存在しない綺麗な物であるかのように見せる色付きフィルターの端っこを後藤の手で引っ剥がされ、ベールの影に隠された人の薄汚い営みを見せられてショックを受けているんだろうと思った。
草薙の家に行くのは初めてだという後藤は、知らない場所、それも他人の生活領域に入り込む事について特に緊張を覚えている様子は無く、ただ自宅の廊下を歩くように団地の敷地を歩いている。たぶん後藤からは、そういう物怖じをするよう感情がとうに失われている。自分が街ゆく人に風体の怪しい人間だと思われる事を全く気にしないタイプ。
途中で後藤は足を止め、分岐する廊下の先を指して言った。
「もしここで火事が起きたら、たぶんあの辺で人が大勢死ぬ」
小熊には後藤が指差した場所がただの廊下にしか見えなかったが、廊下の突き当りにある非常口は、外の光と室内照明の組み合わせで生まれた影の中にある。天井近くに非常口のランプはあったが、ちょうど誤認しやすい位置に、外の光が壁材の色に反射して緑色がかって見える細い窓があった。もしも火災の煙で視界が悪い状態なら、小熊もそこに向けて走っていってしまうかもしれない。その場所は建物の構造から生まれた廊下の窪みになっていて、建材から発生した有毒ガスが溜まりやすそうに見える。
きっと後藤の目に見えているのは、建物の構造的な欠陥じゃなく、そこで息絶える人間の姿なんだろう。世の中にはそういう事が出来る人間が存在する。建築火災だけじゃなく災害やバイク事故でも、無意識に情報を取捨選択して、シミュレーショの結果起きる出来事を映像として認識するタイプの人間。
後藤は彼女の目に映っているであろう通常の人間なら目を覆うような光景を、口の端から血が滴るような笑みを浮かべて見ている。もしかして彼女に見えているのは、人生の半ばで愛する人を残して力尽きる人の姿ではなく、自分だけは生き延びるべく人を押しのけ、人間がその本性を剥きだしにしている姿かもしれない。
小熊は後藤の横顔を見た。人の運命を映す紫色がかった水晶玉のような瞳は、団地のドアと、その横のインターホンを見ていた。
小熊は自分の背筋が冷えるような感覚を味わった。今、南海と後藤と共に一緒に行動しているのは現実の出来事なのか、この団地の薄暗い廊下を歩いているうちに、いつのまにか常夜の世界にでも来てしまったのではないのか。後藤の紫水晶のような目を見てしまった小熊は、今の自分が生きていて、一緒に居る南海が幻でないという事を確かめたくなった。
小熊の背に何かが触れる。いつの間にか添えられた南海の手。斜め後ろを振り返ると、南海が心配そうに小熊を見ていた。
小熊はとりあえず安心した。自分をこんな優しそうな目で見るのは、心を通じ合わせた人間か、あるいは何かを奪おうとしている詐欺師に違いないが、こんなに暖かい手をしている嘘つきは居ない。
小熊より一回り背の低い後藤が、少し背伸びしてカメラつきのインターホンを押した。電子音の後にインターホンからは声が聞こえず、スチール製のドアが静かに開いた。
「こんにちは小熊さん。はじめまして、あなたが吉村南海さんですね。後藤主任もうちに来てくれて嬉しいです」
硬質の長い黒髪に少し不似合いながら、清潔そうな緑色のワンピースを着た草薙美伊裳が小熊たちを出迎えてくれた。
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