第77話 キムワイプ

 小熊は後藤に与えていた拘束を解いた。意外な事に後藤は逃げ出すことなく南海を正面から見据えている。

 後藤は入院時に中村に貸して貰った白地に紺色のラインとブランドロゴが入った、スポーツブランドのジャージ上下を着ていた。後藤と小熊の再会を手配した中村への義理を果たすため、あるいは思い出すために着ているのではなく、単にそれしか外に出る時に着る服が無いからだろう。小熊の知る限り、後藤は通勤の時に着る物を仕事用の作業着上下で済ませていて、それ以外の用で外出する後藤の姿は思い浮かばない。

 後藤が卒業したという工業大学には同じような学生が多いと聞いたことがある。大学に行く時はいつも実習用作業服で、私服もいつでも上から作業着を着られるスポーツブランドの服になりがち。総じて着た切りだが、学徒らしい清潔な服装より教授や職員への受けはいいらしい。そもそも講義をする教授からしてワイシャツと簡素なタイを締めつつ、その上は大学のネームが入った作業着だったりする。 

 後藤のジャージは借り物ながら扱いは粗雑らしく、食べ物の染みがあちこちについているが、人間が生きて暮らしている限り避けられない役所や銀行への外出のための用は果たしているらしい。

 学生の多い街でジャージ姿を奇異な目で見る住人は少なく、後藤の横を部活登校らしく高校ジャージ姿でブラスバンドの機材を片手に持った若者が通り過ぎていき、それよりお洒落そうな女子が短い制服スカートの上にピンバッジで飾られたセリエAのジャージを着こなしていた。


 後藤は駅構内のコンビニで買ったらしきサラダチキンをまことに行儀悪く食べながら、南海を見て言った。

「あんたがこいつの友達だっている、夜を歩くのが好きだっていうろくでなしか?」

 異形としか思えない女子を目の前にした南海は、忌避するでも警戒するでもなく、とても興味深そうな表情で後藤を見つめ、握手の手を差し出した。

「お会いできて嬉しいです。あなたが小熊さんの言っていた、モンド映画にとても詳しく、紫のバイクについて知っている後藤さんですね」

 後藤はさっきまでサラダチキンを手づかみで食べていた手で南海の手を握った。小熊は今すぐ後藤の手も南海の手もアルコールティッシュで拭いてしまいたい気分だったが、南海は後藤の手より、小熊より一回り小柄で栄養的にも充分と言えない生活で痩せている後藤の意外な握力に驚いている様子だった。

 どうやら後藤は工業大学から重機メーカーへの就職や、今の電子部品流通センターの主任という仕事で、デスクに座ってペンやPCを扱う仕事に就いている人間より、余分に握力がついているんだろう。小熊は後藤と入院生活を共にした時、後藤が時々日常的な姿勢の悪さで背骨に染みついた歪みを矯正するために、病院にある階段の手すりに捕まってぶら下がっていた事を思い出した。病院で勤務していた理学療法士に、それは整体や整復に置いて何の意味も無いと言われていたが、後藤は「暇つぶしでやっているだけだ」とだけ言っていた。

 きっと将来二本の腕じゃなく縄でぶら下がる時に備えた練習なのかもしれないと小熊は思った。 

 あるいは、他人がそういう事をする様に嫌悪より愉悦を覚えるような人間のために作られた自死や処刑の動画を、より深く楽しむための行為。 

 

 南海と握手を交わした後藤は、息をするように失礼な行為をしでかした。

 手にブラ下げていた唯一の荷物である高校生が体育館履きを入れるようなシューズバックから、白地にグリーンのラインが入った紙箱を取り出すと、中からウェットティッシュのような物を取り出して、たった今南海と握手を交わし、きっと後藤には縁の無い良い匂いがついているであろう手を拭き始めた。

 取り出した箱はキムワイプ。理系の学生や職種の人間に絶大な支持を受けている脱脂清拭紙で、後藤の散らかったPCデスクの上にも箱が置かれ、配信に必要なスマホを立てかける用途に供されていた。

 その上、後藤はたった今南海の匂いとサラダチキンの汚れを拭きとったキムワイプを南海に渡しながら言った。

「拭けよ、裏はまだ綺麗だ」

 後藤から渡された使用済みのキムワイプを手にした南海はしばらく考えこんでいたが、綺麗な面を外に向けて折り畳み、ずっとやりとりを見ていた小熊の汗を拭いてくれた。

 小熊は自分が思ってたよりもずっと初対面の二人のやりとりに戦々恐々としていたらしい。


 後藤はジャージのポケットに突っ込んでいたスマホを一瞥した。

 小熊も腕時計を見たが、後藤が伝えて生きた団地の一室での待ち合わせ時間はあと三分。

 そのまま駅近くで目の前に見えている団地の入り口には向かわず、後藤は駅の出入り口脇にある自販機に向けて歩き出す。

 これから会う草薙は、彼女の厚意で情報を与えてくれる相手、約束の時間を守り、相応の礼は尽くさなくてはならないと思った小熊は後藤を呼び止めた。

「もう時間だぞ」

 後藤は小熊を振り返りもせず、彼女が常飲しているエナジードリンクが自販機に無い事に舌打ちしていたが、世界で最も売れているエナジードリンクで妥協することにしたらしく、冷たいコーラを買っていた。

 プルタブを引いて一口飲んだ後藤は、小熊を見ながら言う。

「約束の時間ピッタリにチャイムを鳴らしてお邪魔する。そんな客を迎える人間を見て面白いか?」

 小熊は半ば呆れながら、予定調和の作り笑いと、約束の時間になっても現れず遅れるという連絡も無い相手に苛立ちや不安、ほんの少しの優越感を窺わせる顔。後藤がどちらを見たがるかは明白だった。

 小熊は後藤の案内に従う事に決め、とりあえず後藤がコーラを飲み切るのを辛抱強く待った。

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