第76話 ホットコーヒー
小熊は今すぐ南海の席に駆け寄りたかったが、とりあえず心の余裕を見せて見栄を張るためにセルフサービスのカウンタ―でコーヒーを注文した。
店員は季節のフルーツを使ったタルトを勧めてきたが、コーヒーだけでいいと言う。
元より単に待ち合わせの場所代に過ぎないコーヒー。南海の居る場所に行くために必要な手間なら手っ取り早いほうがいい。
コーヒーの乗ったトレイを受け取ってスマホで会計し、カウンター備え付けの砂糖やクリームを無視した小熊は、店の奥へと歩を進めた。
桜色のカーディガンを着た南海が、少し首を傾げて微笑みながら言った。
「こんにちは、小熊さん」
南海と知り合ってからずっと、夜の時間に会うことが多かったので、昼間の陽の下で会う南海が新鮮に見える。
小熊はトレイをテーブルに置き、南海の向かいの席に腰かけた。片手で抱えていたヘルメットを隣の席に置く。南海も小熊と同じくヘルメットを隣に置いていた。お互い身に着けている物の中で最も高価な代物。小熊のヘルメットはカブを中古で買った時にオマケで貰ったものだが、後に調べたところそれなりに値の張る物らしい。南海のヘルメットはバイクに乗り始めた彼女の身を案じた両親が買ってくれた物で、手に入れてから日が浅く、今は見ているだけで幸せにになる時期。
小熊も南海も、バイク本体よりも簡単に盗めて、悪戯されることもあるヘルメットは、カブを目の届かない場所に駐める時は出来るだけ持ち歩いていた。
小熊は南海に言った。
「待たせたかな」
南海はテーブルに置かれたスマホを掌で示しながら答える。
「今まで調べた事をまとめていたんです。でも、こればかりは直接お会いしてお話を伺ったほうがよさそうです」
南海のトレイに乗っているのは、小熊と同じくホットコーヒーだった 店内は冷房が強めに効いているが、窓の外は炎天下の真夏。周囲の席を見ると氷を浮かべたアイスコーヒーを飲んでいる人のほうが多い。
小熊の経験則では、バイクに乗る人間はホットコーヒーを飲みたがる。夏でも絶えず風に晒されていると、失った体温を補いたくなるからか、単に冷たい飲み物を続けざまに飲んで店を出た後にトイレに行くのが面倒だからなのか。
高校の同級生だった礼子が、七月最終週に催される国内バイクレース最大の祭典、鈴鹿八耐に行った時の事を聞かせてくれた事がある。
「夏の鈴鹿で革ツナギ着て観戦に来た連中がホットコーヒーとか飲んでんのよ!? こいつら頭どうなってるんだ! って思ったわ!」
礼子はそう言いながら椎の煎れた熱いエスプレッソを飲んでいた。バイクより自転車との付き合いの長い椎は常にホットコーヒーで、冷たいコーヒーを邪道の飲み物と言っていたが、たまに甲府まで水出しのコーヒーを飲みに行くらしい。
小熊はまだ熱いコーヒーに口をつけながら、南海が小熊に向けて差し出したスマホの画面を見た。
表示されていたのは、バイク雑誌じゃなくゴシップ誌の都市犯罪特集に書かれた紫のバイクに関する記事。小熊が一通り目を通すと、紫のバイクに乗った人間を犯罪者扱いす内容だった。
おそらく記事を書いたライターの脳内にしか存在しない関係者の証言や消息筋の情報によると、紫のバイクに乗っているのはカラードギャング系の盗犯集団で、バイクが好きなわけじゃなく単に逃走に便利だから乗っているだけ、バイクそのものも盗品。紫の塗装はその出所を隠すためだという、誌面の埋め草以外に何の価値も無い記事だった。
推測と疑問符まみれのその記事に全く信憑性が無いのは、前後の記事がユダヤ資本の陰謀と公安の個人思考盗聴だって時点で明らかで、記事の文責を負うべき存在である記事執筆者の名前はどこにも無かった。
おそらく読者の下卑た好奇心を安易に充足させるための記事で、その記事によって誰かしらが損害を受け、訴訟問題に発展した時は、下請けが勝手にやった事、記事を精査する立場にある社内編集者は退職済みというお決まりのノラリクラリで相手が疲弊し諦めるまで逃げるんだろう。
南海はその記事に義憤を覚えるでもなく、草薙や本郷の大学と交渉するカードを得た顔をするでもなく、単なる現象、それも知能のひどく低い人間の行動と認識している様子で、小熊に言った。
「こういう情報が一人歩きしないために、出来るだけお手伝いをしたいと思います」
南海は残っていたコーヒーを飲み干し、席を立とうとした。
あと十分ほどで後藤が一方的に伝えてきた約束の時間になる。草薙と会う場所であるニュータウンの団地は店からも入り口が見えていて、カブを駐め、エレベーターを昇る時間を含めても徒歩三分もかからないだろう。
相手との待ち合わせには余裕を持って到着するのが礼儀として身についている南海の肩を、小熊は押さえた。
「まだコーヒーを飲んでいない」
南海は気遣いの無さを恥じるように席についた。小熊に何か考えがあるであろう事まで察した様子。
時間をかけてコーヒーを楽しみ、テーブルを片付けた小熊は席を立った。南海も後ろからついてくる。
小熊は店を出て、団地とは反対方向に向けて歩いた。行先は駅の出口。それも改札を通り駅を出た人間の死角になる位置。
思った通りお目当ての人間は駅から出てきた。ジャージ上下でシューズバック一つ持っただけの後藤。
目の前の駅は後藤のアパートから徒歩三分の黒川駅から三駅。しかし世の中には、時間ギリギリにしか行動できない奴が居る。
後藤は駅を出た途端、炎天下の陽気に炙られて早くも引き返そうとする動きを見せたが、小熊が素早くすり寄って後藤を羽交い絞めした。
夏の夜によく見かける、ひっくりかえって死にそうになっていう蝉のように手足をばたつかせている後藤の前に立った南海が、微笑みながら言った。
「初めまして後藤さん、私は吉村南海です」
必死で小熊の拘束を逃れようとする後藤の動きが、少し弱くなった。
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