第55話 糖衣錠

 目の前で純粋な好奇心を見せる南海を前に、小熊は少し考え込んだ。

 南海が会いたいと思っている相手は、出来れば小熊が会わせたくないと思っている人種。

 後藤は体格も貧層で押し出しの強い人間には弱く、身体的な部分に限ってはどちらかといえば無害な人間に属するが、性格と趣味は悪すぎる。

 およそ健全とはいえない生活をしていて、いつも見ているモンド映画と呼ばれる悪趣味な映像作品は、とても南海に見せられない。語彙も口調もまことに汚く、存在自体が危険で有害な脱法舌下錠みたいな奴。 

 

 そういう意味では草薙のほうが危険かもしれない。話し方は知的で語彙も豊富、性格も理性的で、普通の人間とは知能指数が違いすぎて腹を割ったコミュニケーションが難しい南海が対等に話を出来る数少ない人間だと小熊は思っていた。

 だからこそ、危ない。

 彼女は長野の国立大学で教職課程を卒業して高給を得られる学習塾教師になり、その頃から意識し始めた自分の社会のズレに苦しんだ結果、オカルトという趣味に耽溺し、今は電子部品の配送センターでの夜勤仕事を生活の糧とする。客観的に見れば挫折とも堕落とも取れる生活をしている。

 それでも彼女は安定した生活を営み、彼女自身にとっては充実し満ち足りた生活をしている。

 幸福度とQOLの高い草薙の暮らしという、糖衣錠のように口当たりのいい砂糖でコーティングされた中には、小熊があまり南海にそうなってほしくない人生の苦味が隠れている。

 

 吉村南海はこれから先、彼女の知能に相応しい進路へと進み、夜の散歩という奇矯な趣味もまた彼女の感性を磨くのに役立ち、結果として日本の最高学府とのコネに繋がった。

 このまま彼女が誤った選択をすることなく順調な人生を過ごせば、間違いなく中学や高校で南海を陰気で話下手なコミュ障として見下していた周囲の人間を遥かに高い場所から見下ろせるような人間になれるに違いない。

 だが小熊は、そんな順当な人生を過ごしてきた人間が些細な蹉跌で足元を掬われ、堕落していく様を何度も見てきた。

 南海にしてみれば、首尾よく公立大学に進学しながら学業よりバイク便の仕事に熱意を傾けている自分もそうなんだろうと思った。

 小熊がそれに気づいた時、南海とにとって自分が有害だからという理由で引き離される事を想像したが、それは耐えられない事だと思った。


 もしもそうであったとしても、人間には知恵というものがある。意識して彼女にとって有害な情報や物には触れさせないように注意するという対症療法的な行動を心がけていれば、自分は南海にとって無害とはいえないが、それほど毒性の強くない許容範囲内の存在で居続けられる。

 だいた有害というのは何なのか。南海は子供じゃない。しかも自分よりだいぶ賢い。彼女は自分にとって害になりうる存在をちゃんと選別し適切な距離を保ち、正しく接する事が出来る。小熊自身だって高校の時に有害と呼ばれる物を散々見ていて、その経験が無ければ後の人生で危険を遠ざける事は出来なかった。今だって大学で竹千代と春目という、しばしば人に害を成す存在に出会い、被害を受けていないとは言えないが、親交や友誼と言われるような関係を結ぶことなく共助関係を維持することで、何とか自分の裁量と才覚で生活を破綻させるほどの被害を受けずに済んでいる。

 もしも後藤や草薙、そして本郷の国立大学の森脇や幣亭翠が南海にとって有害な情報を与える存在だったとしても、その有害の筆頭としてしばしば人間の安寧な生活をぶっ壊すバイクというものを教えた自分自身よりは遥かにマシで、南海は今現在小熊の目のまえで、バイクの持つ益と害を自分の中に併せ呑み、その有害な部分を自分の知恵と判断で適時排除しつつ、有益な部分をしっかり取り入れている。

 小熊の頭の中に、その有害なバイク乗りの筆頭である高校の同級生のことが頭に浮かんだが、礼子は好きこのんでそうしている。


 今もなお南海が自分と友達でいてくれるということは、有益な人間と認めてくれるんだろうと思った小熊は、南海が後藤や草薙と正しい人間関係を構築できると信じた。もしそれが正しくなかったとして、あるいはこちらの浅慮で勝手に正しくないと決め付けたからといって、南海から取り上げていいものではない。

 思索する小熊を、ただ答えを待つように見つめていた南海に、小熊は言った。

「わかった、明日南海が草薙と後藤に会えるようにする」

 南海は花が咲くような笑顔を見せた。もう桜は散り夏の花も萎れ始める季節だけど、もうすぐ秋の花が咲く。

 コスモスの花を思い出させるような南海は、小熊のつまらない憂慮をあっさり溶かすような顔で言った。

「ありがとうございます! 小熊さんに相談して本当に良かったです。でも、今からでは駄目なんですか?」

 南海に谷間を見せつけるような上目遣いでおねだりされると、今すぐ願いを叶えてあげたくなるが、何とか理性を発揮して南海に言った。

「二人とも夜勤だからね、この時間は寝てる」


 今は夏休みながら普段は高校に通い、学校の授業が生活時間の中で重要な部分を占めている南海は、学生のように長い休みは無いが各々の勤めに合わせて課せられた勤務時間を基準に生活する社会人の感性に思いを至らせなかった自分を恥じるような顔をした。

 小熊は南海に手を伸ばし、肩に手を置きながら言った。

「明日の昼には会えるように頼んでみるから、任せて」  

 南海は小熊の手に頬を寄せ、頷いた。

 そういうことが出来るのはあと少しの時間なんだろう。でもあと少しだけ、人生の先輩で少しだけ余分に長くのっているバイク乗りとして、南海には自分に頼って欲しいと思った。

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