第54話 南海の望み

 窓の外はまるで示し合わせたかのように陽が沈み明るみが消え、漆黒の直前、紫の空が広がっていた。

 小熊はどこから話そうか、主に話のどこを切り取って隠そうかと考えていたが、南海に全て話してしまった。

 あまり健全な女子高生には知ってもらいたくない、後藤というまことに不道徳な女との入院中に知り合った話から、紫のPCXとの遭遇、そのバイクに乗っている人間が着ていた作業着から後藤の存在を手繰り寄せ、再会した後藤の差配で会うことになった草薙という女性の話、オカルトという趣味を愛好する彼女がその趣味によって他者に迷惑をかけない善良な存在であり続けるために、乗っているホンダ・ダックスを紫色に塗った話。それからも紫のバイクの活動は続いているという話。何もかも包み隠さず話した。

 結局、南海にならこの情報を安心して預けられるという信頼もあったし、何より南海と二人でこうやって共通の話題について語り合う時間を少しでも長く楽しみたかった。

 

 南海は時々コーヒーとアップルパイを口に運びながら、話の腰を折ることなく先を促し、たまに聞いた話の感想を話すだけの聞き役に徹していた。

 小熊が高校三年で足を骨折して入院した話をした時、南海はテーブルの下に手を伸ばし、もう痛みも後遺症も無い小熊の左脚をそっと撫でてくれた。

 小熊は肉体的な痛みを感じる部分とは別の場所に残っている、記憶の中の痛みまで霧消した気がした。

 草薙の高校時代の話をした時は、家族旅行で草薙の故郷である長野上高地に行った事があるという南海は、気候も風景もどこか日本離れした場所の事を懐かしそうに話してくれた。

 草薙と同じく高校時代に原付に乗り始めた南海は、自分にもこれから待っているかもしれない未来に目を輝かせていた。

 あまり話したくなかったが、草薙と小熊の橋渡しをしてくれた後藤について話した時は、「とっても可愛らしい人ですね」と、実際に後藤の姿と住んでいる部屋を見たらそんな考えは瞬時に吹っ飛ぶような事を言っていた。


 小熊はすっかり冷えたアップルパイを齧りながら言った。

「これが私の聞いた、紫のバイクについての答えの一つだ」

 小熊は温くなったコーヒーに砂糖もミルクも入れず、口に含んだ。

 これで南海は、紫のバイクについての論文を書くことが出来るだろう。小熊としては少し寂しいが今すぐ家に帰ってパソコンに向かいたいと言い出すかもしれない。

 彼女なら限られた情報に、自分で調べた補足や、決して恣意的にはならない推測を付け加え、本郷の大学に収蔵されるに足る論文を書き上げる事は可能だろう。

 だから、おそらく南海が次に言うであろう言葉を小熊は聞きたくなかった。

 向かいの席でコーヒーを一口飲み、カップを静かにテーブルに置いた南海は、小熊に言った。

「その草薙さんという方に、会わせてもらえませんか?」

 最初からわかっていた。南海なら聞き書きの情報だけで論文は書けるし、それを提出して大学内での自分の立場をよりよくする事も可能だろう。

 でも、吉村南海はそうしない。


 夜の散歩という奇妙な趣味を持ち、動画や画像で幾らでも見られるような夜の風景を直接見に行くためにあらゆる困難を乗り越えた南海は、きっとその紫のバイクについての情報を人伝てで聞くよりも、紫のバイクとそれに乗る人たちの、生きて鼓動している姿に触れたいと願うはず。

 小熊は南海の願いを叶えるために全力を尽くすと決めているが、今回ばかりはそうしてあげようか少し迷ってしまった。

 草薙はともかく、後藤という女は南海に会わせるには人格や風体、趣味に問題がありすぎる。

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