第51話 ホットコーヒー
小熊は足取り軽く席についた。
普段この店に来る時は、バイクの振動に長時間晒された後ゆえ足取りが覚束なく、ふらつく足で海を泳ぎ、やっと見つけた無人島に辿り着くように席に座る事が多かったが、今日はどうやら普段は椰子の木が一本しか無い島にバーでも建てられたらしい。
小熊はテーブルにトレイを置き、着席した。
「何も食べてないの?」
二人席の小さなテーブルには、ファンタオレンジの紙コップと南海のスマホが置いてあるだけ。南海は微笑みながら言った。
「お小遣い無くなっちゃいますから」
小熊は自分のスマホを取り出しながら「何か奢るよ」と言うと、南海は慌てて押し留めたが、小熊はアプリを開き、ダイエットでも気にしてるのかと勘ぐってフィレオフィッシュを注文する。
「私から今日に教えられる情報が、南海の論文に有益なものとは限らない。だから一緒におやつでも楽しむついでにでもなればいいと思って」
小熊が南海に伝える紫のバイクの正体が、彼女が論文を書く助けになるとも限らないし、書くだけでなく書いた物を他人に見せるべきなのかについても、彼女は悩む事になる。
南海は恐縮して縮こまった。
すぐに席まで小熊の注文したフィレオフィッシュが届けられる。ハンバーガーチェーンで店員に持ってきて貰える店はそう多くないが、この店はアプリでの追加注文に限り席まで届けてくれるので、客層も店員が来ることで話の腰を折られる事を嫌う学生や主婦より社会人の一人客が多い。
南海は届いたフィレオフィッシュを見て目を輝かせている。
「ハンバーガーはしばらく食べて無かったんです。カブに乗るようになってから色々とお金がかかるようになって」
小熊も覚えのある事だった。カブだけでなくヘルメットやグローブのような最低限の保安器具は、中古バイク屋のキャンペーンを利用してタダで手に入れる事が出来たが、バイクに乗り始めると他にも細々とした物が必要になり、何より視野と世界の広がりに連動するように物欲が急加速する。
南海もヘルメットとグローブは、彼女の新しい趣味を許容しつつ心配もしている両親から買って貰ったが、カブに乗るようになって手に入れた物はそれだけではないんだだろう。南海のタブレット並みに画面の大きい六インチのスマホは、小熊と初めて会った時から変わっていないが、カバーが耐衝撃性の新しい物になっていた。
きっと次はバイクに乗りながらナビを見たり充電出来たりするスマホホルダーが欲しくなるな、と思いながら南海を見つめた。
ファンタとハンバーガーを楽しみながら、南海はカブに乗り始めて色んなところに行った事。同じく夜の散歩の趣味を共有する友達の森脇に会うために本郷の大学に行こうとしたが、私鉄が突然の人身事故による運休を起こしたためカブで本郷まで行き、講義や実習に出る事をいやがる森脇を布団から引っ剥がし、翠に感謝された事などを話した。
他校在籍ながら正式なサークル部員として、これから本郷や駒沢のキャンパスに行く事が多くなる事、基本的に電車で行く事になるとはいえ、その補助は必ず必要になるという小熊の見立ては当たっていたらしい。
南海の暮らすマンションからすぐ近くにある南大沢から本郷までは、私鉄を使えば都心部に入ってから地下鉄に乗り換えるだけでさほど時間はかからないが、その私鉄に依存しているため突然の運休が発生すると途端に行くことが難しくなり、迂回路も乏しい。駒沢に至っては南海の住む東京都下には南北に移動する電車そのものが存在せず、一度都心で出てから引き返す遠回りなルートを辿る事になる。原付は南海にとって、それらの問題を解決してくれるツールだった。
それからも南海の話は止まらない。カブに乗り始めて色々な場所に行き、色々な事に役立ってくれた話。それでも自分の楽しみの中心は夜の散歩にあり、カブはそれをより強固で自由な物にしてくれた話。
小熊は正直、南海をカブに乗せる事については少し迷いもあった。事故でも起こせば非常に稀有な知能も失われる。
しかし小熊の判断はあながち間違いでは無かったのかもしれない。いまさら学校からは何も目新しい事は学べず、人間関係から何かを学ぶのがすこし苦手な南海は、バイクの速度で目の前を流れる景色と、今までより大幅に広がった行動範囲という最良にして無限の教科書を得た。
小熊は南海に紫のバイクについての話をしようと思ったが、それはまだ早すぎると思った。
今はただバイクに乗り始め、何かの間違いで鰭と鰓を持って陸に生まれてしまった生物が、初めて海に飛び込んだ時のような解放感を味わっている南海の話を少しでも多く聞かせて欲しいと思った。
小熊はいつのまにか減っている二つのファンタの紙コップを見つめた。
小熊と南海がこの店で、真夜中に互いの心を見せ合うような時間を過ごす時に飲んでいたのは熱いコーヒー。
まだ窓の外は夕方の明るみが少し残っている。
ホットコーヒーにはまだ早い。
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