第49話 電話

 小熊は南海のスマホに電話した。

 南海は昼間あまり家の外に出ないし、今のところバイトの類をしていないと聞いている。

 夜の散歩という金のかからない趣味に必要な金は、彼女の趣味に寛容な親から貰う小遣いで足りていて、最近彼女にとって出費の種になっている原付という趣味に関しても、スーパーカブの維持費の安さもあって間に合っている。

 でも、それはこれから変わっていくのかもしれない。

 小熊は自分が高校の時に従事し、今もなおカブの維持費用を賄ってくれているバイク便の仕事をしていた時の事を思い出しながら、少し長い発信音を聞き続けた。

 「こんにちは! 小熊さん!」

 

 少し息を荒げながら電話に出た南海、何かの用で忙しいところを邪魔してしまったのかと思ったが、電話越しに聞こえる南海の声は明るかった。

「さっきまで図書館に行っていたんです。紫のバイクについて何かわからないかと、手がかりになりそうな本を色々と閲覧していたんですが、何も見つからなくて困っていたところなんです」

 南海の自宅から徒歩圏の図書館なら南大沢の駅前にある。大学からも目と鼻の先なので小熊も何度か書籍の閲覧より涼みに行く事が目的で利用した事があったが、知り合いに会う事が多すぎて足が遠のきがちだった。

「南大沢の図書館かな? あそこは結構広いから」

 南海はやや焦りを窺わせる声で言った。

「南大沢や八王子の図書館には昨日行きました。郷土資料に民話や都市伝説、バイク雑誌や新聞のマイクロフィルムまで読んで調べたんですが、紫のバイクという言葉は幾つか見かけても、その正体に繋がる情報が何も見つからなくて」


 深夜のハンバーガーショップで何度も一緒の時を過ごした時から気づいていたが、南海が文章を読む速度は常人のレベルをはるかに上回っている。スマホで読む小説や記事だけでなく、普通の人間が日常生活で読み飛ばす事の多い約款や契約書まで南海はあっという間に読み終えてしまい、自分にとって重要な情報を抽出してしまう。

 きっと聖徳太子が目の前に現れたら、こんな気分になるんだろうと思いながら、小熊は南海に伝えた。

「紫のバイクについては、その一つであるかもしれない話を昨日聞いてきた」

 スマホの向こうで南海が息を呑むのが聞こえた、いずれ人に驚かせられるより驚かせる事の多い人生を過ごすであろう南海の、貴重な声を聞いた気がした。

 まだ吉村南海という少女が一人の人間として完成する前にしか聞けない、成長痛のような声。

 「凄いです小熊さん! 私は森脇ちゃんの役に立とうと一生懸命色々調べて、何も見つからないから、明日はカブで永田町の国会図書館まで探しに行こうと思っていたのに!」


 小熊は自分が南海のために紫のバイクの情報を調べ、その真実といえる物のうちの一つに辿り着いたのは正解だったかもしれないと思った。

 ほっとくと南海は自力でその情報に辿り着いてしまう。彼女に嘘を掴ませる事などスパコンの演算能力を全て使ったAIでも無理だろう。ただしその情報を正しく取り扱う方法を見つけられるとは限らない。

 何より南海が紫のバイクについて無理な調べ事をして、危険な目に遭うような事はあってはならないと思った。

「紫のバイクについては、出来ればスマホやLINEじゃない直接話したい。いつでもいいから会えないかな?」

 南海の答えは早かった。これだけでもLINEじゃなく通話で南海と話した価値がある

「小熊さん、私はいますぐ小熊さんに会いたいです」

 南海の喉の奥深くから鳴る、到底値段などつけられぬ価値を持つ楽器を鳴らしたような声。小熊は自分の全身が震えるのがわかった。正直、情報を出し惜しんだ理由の半分以上は南海のこの声が聞きたいから。


 小熊はいま抱えているくだらない仕事を全部放り出したい気持ちを必死で押さえつつ、夕方の時間に南海の暮らすマンションの向かい側にあるハンバーガーショップで会う事を約束した。

 南海は名残惜しそうな声で「待ってます」と言って通話を切った。この世に南海の同じような声を出させる人間だどれだけ居るだろうか。もしかして南海の友達だという本郷の大学の森脇というサークル部長は何度も聞いているのかもしれないが、だから何だ、先に聞いたのは自分だと思いながら、小熊は残りのアイスコーヒーを飲み干し、チェーン系の店に慣れた身には若干高価なホテル喫茶室のコーヒー代を現金で払い、手書きの領収書を貰って店を出た。

 割り切って今は自分の仕事をこなすと決めてみたものの、実際にやってみると何ともくいだらなくももどかしいピストン輸送の仕事を終え、本社に急送業務終了を連絡した小熊は、もし頼まれても請ける気など更々無い追加の仕事が入っていない事を確認し、南大沢のハンバーガーショップまでハンターカブを走らせた。

 エンジンの中で煮えたぎって煙が出そうなカブのオイルが、今の小熊の気持ちのようだった。

  

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