第48話 一次資料

 マルーンの女の声はスマホ越しでもなお耳障りだったが、それでも一応小熊の知りたい事は教えてくれた。

 小熊が草薙の存在や行動を隠しつつ、論文の提出とその帰属について聞いたところ、それは学会を査読を経て収蔵される正式な論文ではなく、学位を持つ研究者がフィールドワークの中で関係者から聞いた話や収集した文書を論文にまとめた一次資料と呼ばれる物になるらしい。

 マルーンの女は、それは形式的なもので、実質的にはそうでない体裁の論文が収蔵対象になった例は幾つもあって、特に学位の無い記者や作家、あるいは高校生によって書かれた論文が、大学内の学位取得者の監修つきという名目でそういう扱いを受けた例は、特にあの大学には多いらしい。

 小熊が一番聞きたかった情報である、論文の扱い、見るべきでない人間の目に触れる可能性についても、マルーンの女は実体験を踏まえて教えてくれた。


 マルーンの女が准教授として研究している分野である民俗学については、重要な一次資料を全て本郷の国立大学が抱え込んでいて、それを外に出す事はまず無いと、憎々しげに教えてくれた。

 現在国家の主導で行っている国土開発に影響を及ぼす可能性のある郷土資料、国益上非常に重要な人物の名誉や品位を毀損する可能性のある歴史資料、それについて書かれた論文はもちろん、類推される事すら起きないように、同一の題材で書かれた論文をまとめて秘蔵したりする。

 それらの抱え込みは論文の出自を問わず行われていて、戦後間もない頃に書かれた海外記者によるルポタージュやインタビューのうちの多くが、あの大学の書庫にしまい込まれているらしい。

 戦中に接収され日銀に保管された還流紙幣とダイヤモンドの行方など、小説題材や詐欺に散々使われた噂話の真実も、その中にあると言われている。

 小熊はマルーンの女の話を聞きながら、オカルトと都市伝説という、未だに学問の分野としては認められていない題材を取り扱う南海の論文も、その可能性はありうると思った。


 日本の産業を支える人たちが出会った救いの話と、そこから明日も勤労に励もうと思わせる活力を得る話は、貴い物であると同時に、産業を管理する側の人間が、いい方向にも悪い方向にも使いうる情報になる。

 そこまで話したところで、マルーンの女は小熊が何らかの民俗学に関する情報を掴んでいる事に気づいたらしく、その情報をうちの大学に渡してくれれば悪いようにはしないと言ってきたので、それについては断っておいた。

 紫のバイクの情報とその論文は、南海が本郷の大学での立ち位置を得るために提出するもので、南海にとってその場所は、深夜徘徊を趣味とする仲間の居る本郷の国立大学でなければ意味が無い。それに、世に何ら迷惑をかけぬ趣味を楽しむ善良な勤労者である草薙たちが不本意な扱いを受けないようにするため、彼女たちについての情報を正しく管理してもらうのなら、本郷の大学が最も適しているだろうし、それに関して小熊はマルーンの女を信じていない。

 それについては草薙たちの活動範囲と物理的に近すぎる成城の大学もリスクが高いように思った。

 もし南海の論文を受け取った大学側が独自の追加調査を始めたりしたら、それが草薙たちにとって有益なものになる保証はどこにも無く、唯一の歯止めになりうるマルーンの女については、全く当てにならない。

 なんの意図があるのか、近いうちに一緒に食事でもしようと誘ってくるマルーンの女に曖昧な返事をして通話を切った。


 小熊がスマホの時刻表示を見ると、荷請け先に都合でまだ少しの間時間を潰さないといけないらしい。

 バッテリーの残量を横目で見た小熊は、スマホの履歴からもう一つの連絡先を探し出してタップした。

 幾つかの裏付け情報を得るために少し時間がかかったが、小熊の気持ちはもう決まっていた。

 南海に全てを話そう。そうすればきっと最善の結果が得られる。

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