第29話 わたしのバイク
注文の食事が小熊たちの居るテーブルに届けられた。
小熊はとりあえず草薙という人間が、まともな意思疎通の出来る相手であることは理解した。
向こうも自分のことをそう思っているのかと小熊は思ったが、そう思われなかったとしてもさしたる実害は無い。ただしこちらは情報という非常に高価な物の提供を頼む身、それに足る人間だとは思ってもらわないといけない。
向かいの席に座る草薙は、自分の前に置かれた青椒肉絲とライス、町中華らしく添えられたスープと大根の桜漬けを前に「いただきます」と手を合わせた後、旺盛な食欲で食べ始める。
小熊も自分が注文した鶏粥を口に運んだが、米粒の残る日本の粥とは異なる中国式に米が溶けるまで煮込まれた粥は、おそらく味付けは粉末のインスタント鶏スープながら、胡麻油、ネギ、生姜の薬味がほどよく利いていて、これから仕事を始める食事、あるいは辛い労働を終えて居酒屋か自宅で一杯飲む前に胃を落ち着ける軽食としては非常に好ましい味だった。合間に後藤のために頼んだ油条を手でちぎって口に運んだが、炭水化物と炭水化物ながら胃腸との相性が良く、バイク便の仕事の前か後にまた食べに来たくなる味だった、
向かいの草薙はライスをかきこみ、ややピーマンと筍が萎れた青椒肉絲を丈夫そうな歯と顎で噛んでいる。
もしかしたら店の主人が強い火力で炒めたのではなく、事前に切って置いた食材をバイト店員が形だけ炒めたものかもしれない。それでも草薙は美味そうに青椒肉絲やライス、スープや桜漬けを美味そうに食べている。チェーン店のセントラルキッチンから冷凍輸送され、温め直しただけの食事よりずっと上等なご馳走なんだろう。小熊もファミレスやコンビニの飯を食うと、自分が合理的な食糧を給餌されるブロイラーか機械部品になったような気持ちになる。
小熊の隣に座る後藤はといえば、さっきからテーブルに突っ伏し、たまに顔だけ上げて烏龍茶や油条を口に運んでいる。一緒に入院していた時も、よくベッドの上で腹ばいになりながら半ば寝ているような恰好で、院内コンビニで買ったスナック菓子を食べていた。今の後藤と違うのはあの時ベッドの上に置いていたノートPCが無いというだけ。後藤はただそれだけの理由で一刻も早く自宅に帰りたそうにしていた。
食事がほどよく進んだあたりで、小熊は彼女に会った目的である紫のバイクについての話を切り出そうと思ったが、きっとまだ早い。食事をしながらでは詳細な説明など望めない。小熊には縁の無いビジネスマナーなるものの話で、食事中に仕事の話をするのは禁忌だと聞いたことがある。小熊の周りにいる社会人が、そういうプロトコルを微塵も気にしない人間ばかりだという事もあって、小熊には話の取っ掛かりというものがわからなかった。
自分はそういう時、何に助けを求めていたのかを思い返しながら粥を啜った小熊は、不意に熱い粥をむせさせてしまい咳き込んでしまい、口から粥混じりの断続的な咳が出る。小熊はこれと似た音を以前聞いたことがある。耳じゃなく体で聞いた。そう、バイクの燃料調整に失敗した時に、エンジンがハンチングと言われる不規則な爆発燃焼をする時音。
やっぱり困った時はバイクに頼るのがいい。ビジネスマナーでは食事中は商売の話とは関係ないお喋りを楽しむものだと聞いたが、自分が人とまともに話せる話題といえばバイクしか無い。
烏龍茶を一口飲んだ小熊は、首を傾けて顎を店外にむかってしゃくりながら言った。
「表に駐めてあった紫のダックスは、あなたのバイクですか?」
おそらく醤油ラーメンと共用のスープを蓮華で啜っていた草薙は、小熊を見て目を見開いた。それからやや身をに乗り出して言う。
「そうです! 私のダックスです!」
小熊が今まで数多く見たもの。人は誰しも自分のバイクについて話す時は、こんな顔をする。
それは一つ間違えると相手を不快にさせる自慢や見せびらかしになってしまう靴やカバンや腕時計、あるいは車にさえ無い。バイクだけのもの。
小熊はおそらく目の前の草薙と同じような顔をして言った。
「私はスーパーカブに乗っています」
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