第28話 烏龍茶

 深夜の町中華で、小熊は後藤の同僚だというオカルト研究会の会長と会う事になった。

 愛想笑いの顔文字を表示する機能が実装されていない部分を除けば、ファミレスの配膳ロボットよりいくらか多機能そうな店員がテーブルにお冷やのグラスを置く。

 ここに来るまでにサラダチキン二個の夕食兼朝食を済ませた小熊は、今の胃でも受け入れられそうな鶏粥、テーブルに突っ伏したまま後藤には油条ユチャオというドーナツに似た揚げパンを注文した。後藤に食わせるためでなく、主に小熊が貰って食べるため、どうせ勘定を持つのは小熊。

 目の前に居る草薙という女は青椒肉絲とライスを注文する。海外の製造元で梱包された電子部品が中心で重い荷物を取り扱う事が無いとはいえ、それなりに体を使うという仕事で疲労した後にたっぷりとした食事を摂る、健康的な内臓を持ち合わせているらしい。注文を不必要に相手に合わせるような無駄な事をしない彼女の性格に、小熊は少し好感を抱いた。


 後藤が唐突に立ち上がり、店の隅に行ってセルフサービスの烏龍茶をポットからグラスに注いだ。後藤は盆も使わずに三つのコップを持ち運び、小熊たちの居るテーブルの真ん中にグラスを置く。

 小熊としてはお茶は自分で淹れたかった。話の内容によってはお茶のグラスを相手に投げつけ、逃げる時間を確保しなくてはならない。自分でお茶を汲みに行けばグラスをテーブルの好きな場所に置けるが、卓の中央に置かれたグラスを自分の手元、それも飲むのではなく弾き飛ばすために適した位置に置き直せば、目ざとい人には必ず行動を予測される。

 とりあえず手札が一枚失われた事については、後で取り返せるだろう。たとえばこの話し合いが険悪にならないように努めるとか。小熊は今まで重要度が低い物として考慮していなかった事を意識する事にした。

 

 小熊が目の前の女に聞きたいのは、南海が知りたがっていて、彼女が出入りしている本郷の国立大学での立場をより有利にするための論文の題材にようと思っている紫のバイクについての話を聞き出す事。そのためには話のとっかかりが必要になる。小熊はこの調べものが終われば用済みになる人間と良好な関係を構築したいとは思っていなかったが、情報提供によって得る利益を明示し、実害をもたらす事は無いという意向を信じさせる程度の意思疎通は必要だと思った。

 だからこそ小熊は、この女に対して抱いた疑問について今のうちに明白にしておくべきだと思った。

 とりあえず注文の品が届く事はまだ無さそうなので、小熊は草薙に尋ねてみた。

「ところでさきっから話に出ている主任ってのは誰の事でしょうか?」


 草薙はグラスを引き寄せて烏龍茶を一口飲み、それから微笑みながら返答した。

「本日同席して頂いた後藤主任の事ですが? 私も弊社のオカルト研究会のメンバーも後藤主任には非常にお世話になっています。貴方もそうなんんじゃないかと」

 自分の烏龍茶を飲んでいた小熊は、お茶を相手に向かって吹き出しそうになった。少なくとも入院中の小熊は、後藤の世話をしたことはあっても世話された覚えなど一切無い。

 小熊はなんとかお茶を飲み下し、笑いながら言った。

「後藤が今の職場で人の役に立っているってのは信じられないですね。私は後藤とは一か月ほどの骨折入院で同室だっただけの関係ですが、こいつは医者や看護師の説明は理解できないし書類もろくに書けない。難しい事は何一つ出来ない奴ですよ」

 今度は草薙のほうがお茶を吹きそうな顔をしていた。烏龍茶が器官に入ったのか何度も咳き込み、銀縁眼鏡越しの目を細めながら言った。

「それは今も変わりません。実務については注意力散漫でミスが多い部分を周囲の人間がサポートしています。でも後藤さんが主任になってから、この流通センターでは現場における事故が一度も起きていません」


 小熊は烏龍茶のグラスをウイスキーのロックグラスのように傾けながら笑った。高校時代に世話になった浮谷社長や現在の雇用である葦裳社長、もちろん小熊自身も後輩のライダーに口を酸っぱくして繰り返してきた言葉がある。

 無事故に勝る業績無し。

 少なくともバイク便の世界では、一回転倒事故を起こすだけで数日分の収益が吹っ飛び、事業主にとってそれ以上の損失となる顧客の信用も失う。そしてバイク便ライダーの事故死という、損害としての数値化が出来ない、絶対に出来ない喪失が消えない傷になって残ることも、決して他人事ではない。

 小熊も他者のバイク便ライダーの葬儀に勤め先の代表として借り物の黒スーツで出席した事は何度かあったが、あんな気持ちは二度と味わいたくないと思っていて、勤め先の社長も確かにそう思っていた。

 それだけに事故防止のために必要な日々の蓄積について、人並みより少しばかり余分に経験がある積もりの小熊は草薙に言った。

「後藤に安全な職場構築や事故防止の心構えが出来るとは思えませんけどね、病院でもよく転ぶ奴だったし」


 草薙はショットグラスのウイスキーを飲み干すように烏龍茶を喉に放り込んでから言った。

「そういうことは社員さんがやってくれます、それが仕事ですから。でも後藤主任はその逆、誰か事故で死んだら面白いのにという思考が前提で注意喚起や行動予測を行ってくれます。後藤主任がここで人がこんなふうに死んだら面白いよね? と言って指摘した内容、それを避ければ事故は起きないし、後藤主任はそれについては人ならざる者であるかのように優れているんです」     

 小熊が後藤と共に入院生活をしていた頃の記憶では、確かに彼女は他人の動線と未来位置の予測、特に人間が慣れて散漫になりがちな思考の動きを読み取る事については、非常に優れていた記憶がある。


 胸骨の骨折で入院していたが特に行動の制限は無かった後藤は、たまに病院の中を徘徊していた。後藤の話によると病院内にジジイがすっころぶ所をよく見られる場所が幾つかあるらしい。掲示板や窓など歩行者の視線が誘導されがちな場所にあるささやかな段差、歩行に気を使っていても散漫になりがちな長い廊下の死角にある滑りやすい素材の床タイル。病院職員は後藤が一見したところ何も無さそうな病院内の一点を見つめていると、その場所の安全性を再検証すると中村に聞いた事がある。

 不備や不注意で起きた事故死の動画が山ほど見られるモンド映画は、そんな後藤にとって宝の山に見えるんだろう。

 後藤が入院するまで耽溺していたネットSNSでの論争を、退院後はきっぱりやめたのも、彼女が主任に抜擢された事やモンド映画という趣味に出会った事と関係しているんだろう。面白いオモチャはもっと面白いオモチャに出会った時にあっさり捨てられる。

 後藤も小熊の知らない所で人の役に立っているらしい、そうしたいとはひとかけらも思わないまま。

 すぐ横で自分の話をされている後藤は小熊たちの会話に全く興味の無い様子で、バーで泥酔しつつウイスキーグラスを離さない客のように、烏龍茶のグラスを掴みながらテーブルに突っ伏していた。

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