第30話 ダックス

 もしも小熊が事前に草薙という女の情報を得ていれば、彼女が所有するバイクについても事前に下調べしていただろう。

 しかし、ダックスに関してはそれは不要だった。

 小熊はダックスについてはある程度の事を知っていた。

 ホンダ・ダックス

 一九六九年に発売され、近年原付二種としてのリメイクも行われた、スーパーカブとエンジンを共有する小型レジャーバイク。

 当時記録的な売り上げを計上しながら、主に実用、運送用バイクとしての需要が中心だったスーパーカブに対し、バイクで行楽を楽しむ層、そしてバイク需要の多くを占めていた「不良」と呼ばれる人たちに人気があったバイク。

 ファッションや自己表現に目ざとい彼らは、ダックスをドレスアップし、他のバイクに劣らぬカッコよさを体現していた。

 小熊が高校時代に出入りしていた中古バイク屋にもダックスは時々入庫していて、小熊も整備や慣らし運転を手伝わされたが、Tボーンフレームと呼ばれるカブを寸詰まりに圧縮したようなプレス鉄板の車体は乗り手の体格を選ばず、自在にコントロール出来る面白いバイクだった。

 

 向かいに座る草薙は、それまで見せていた冷静で慇懃な表情を早々に剥がし、ダックスの話がしたくてたまらないかのように、自分のスマホの中から小熊に見せる画面を選んでいる。

 草薙が見せたのは、ダックスに跨っている自分自身の姿だった。時期はバラバラで服装もセーラー服やパンツスーツなど様々だが、硬質の長髪に銀縁眼鏡、進学校の数学か物理の教師のような顔は変わらない。

 小熊は画像の背景から草薙の出身地を察しようとした。緑が豊かだということしかわからなかったが、背後に映る建物は観光リゾート地でもまず見ないくらいヨーロッパ風の丸太小屋が多い。小熊は日本国内でこんな風景に一つだけ心当たりがあった。彼女の出身地は長野上高地の可能性が高い。

 いまだ年齢不詳の草薙はモトラには長く乗っているらしいが、画像の多くはノーマルらしきメタリックレッドのままだという事に小熊は気づいた。スマホの画面をスワイプさせてみたところ、最近撮られたらしき作業着姿の草薙が跨っているダックスは、紫に塗られていた。


 小熊は草薙にスマホを返しながら言った。

「とても綺麗なダックスです。でも、エンジンはノーマルじゃありませんね?」

 向かいで青椒肉絲を平らげた草薙は、嬉しくてたまらない様子で語り始めた。

「そうなんです。高校生の時に通学が便利になるよう叔母のダックスを貰って、でもお金も無いのでノーマルで乗っていたんですけど、やっぱり原付一種では不自由で、70ccのシリンダーとピストンを組んだら、私のダックスがどこまでも走れる凄いバイクになって、それからは、まぁマフラーやサスペンション、ブレーキと電装をちょっとだけ」

 つまり、目の前に居る草薙という女は、自分ととてもよく似ている十代を過ごしてきたらしい。

 小熊が店に入る前にチラっと見た限り、ダックスはエンジンの排気量拡大を示す黄色の原付二種ナンバーと紫の塗装以外の改造ヵ所については気づかなかったが、彼女のダックスには小熊が思ったよりずっと細部にまで及んだカスタマイズが施されているらしい。

 草薙はコップに残っていた烏龍茶を一気に飲み干し、まだ喋り足りないといった表情をしていた。小熊は彼女が口の重い相手なら、滑りをよくするためにビールか紹興酒でも注文しようと思ったが、どうやら烏龍茶のおかわりだけで充分なようだった。

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