第26話 退勤
スマホのアラームを頼りに小熊は短い睡眠から目覚めた。
深夜二時。人間どころか電車やテレビも眠っている時間。人間の道理に反した気分を味わいながら支度を済ませる。
デニムパンツにボタンダウンシャツ、スイングトップの上着、巾着袋を持っていこうとしたが、今日は仕事で出かけるわけではないのでスマホで充分だと思い、上着の内ポケットにiPhone、デニムのポケットに鍵と財布を突っ込む。
ヘルメットを持って外に出た小熊は、蝉の合唱を聞きながら漆黒の空を見つめ、息を吸った。
夜になっても暑いが、空気は澄んでいた。
縁側に停めたハンターカブとコンテナガレージに入れたカブ90、どっちで行くべきか小熊は少し迷ったが、結局カブ90を選んだ。
夏の夜にはカブがよく似合う。ならばハンターカブとカブ90、両方で味わいたくなる。
道路か空いていたので、十分少々で後藤のアパートにに到着した。そこから徒歩五分ほどの距離にある後藤の職場に歩いて行くと、三時の時報から数分後に作業服姿の後藤が他の労働者と一緒に出てきた。
数時間前にここに出勤した時には死んだ魚のような目をしていたが、今は生きていた時の記憶すら無い剥製の義眼のような目をしていた。
他の労働者も似たような顔をしている。まるでゾンビ映画のような風景。
小熊が意外に思ったのは、後藤が周囲の人間から結構話しかけられている事。後藤はといえば頷くか首を振るだけでろくに返事をしていない。
後藤が顔を上げてこっちを見たので小熊が手を振ると、一度上げた視線を再び落とし、罪を犯してこれからしょっ引かれるような歩調で小熊のほうに近づいてくる。
とはいえ小熊は後藤の手首にかける手錠もっていないし、そのまま後藤を西部劇の無法者のように引きずるスーパーカブは後藤の家に置きっぱなし。
とりあえず拘束具の代わりに後藤の手首を掴むと、後藤の背後に居た同僚らしき男女の集団が遠慮がちに「後藤さんお疲れ様でした」と声をかけてきたが、後藤は返事もせず歩き始める。
後藤はそのまま小熊と一緒に職場である電子部品の流通センターを出て、数軒隣にある数時間前の出勤時にも寄ったコンビニに入る。
もしもこの一帯の道路が流し込んで間もないコンクリートなら、路面に残る昨日の足跡を踏みながら歩いているような感じ。
きっと後藤は毎晩この時間に、同じ足跡を踏みながら職場を出て、そのままこのコンビニに入る日々を繰り返しているんだろう。それはコンビニからの徒歩五分ほどの帰路でも変わらず、小熊が一緒でも同じ足跡を同じ歩調で踏む。
場所柄なのか広い駐車場のあるコンビニに入った後藤は、小熊がさっきから聞きたかった事を話した。
「紫のバイクの人、この先にあるラーメン屋に居るから、今から行く」
後藤はそれだけ言ってコンビニに入った。
夕方の出勤の時と同じく雑誌にもコスメ類にも目をくれず、サラダチキン二個とトマトジュースを手に取った後藤はレジに向かう。後藤の手首を掴みながらも子供が母親に手を引かれるように後藤について店内を歩いた小熊は、ベーカリーコーナーにあるドーナツに伸びかけた手を引っ込め、後藤と同じ塩味だけのサラダチキンと、エナジードリンクの缶を掴んだ。
今回も後藤のサラダチキンと一緒に小熊のスマホで決済したが、後藤はやはり礼すら言わず、自分のスマホを出そうともしない。
ただ今回もそうなるだろうなという迷惑そうな表情を見せただけ。
小熊は店を出るなりサラダチキンの包装を剥ごうとしている後藤の手首を引いた。
「ラーメン屋は私が奢るから、サラダチキンは家に帰ってから食べよう。苦手でなければコンビニで卵とネギを買って親子丼を作ってあげてもいい」
後藤は心底くだらない物を見るような目つきで小熊を一瞥した後、小熊の手を振り払ってサラダチキンを食べ始めた。
入院で一か月弱の間、寝食を共にしていた時から後藤はそうだった。それが利益の供与だったとしても、後藤は変化することもさせられる事も嫌う。後藤が飢えるように見ているモンド映画に出てくる人間もそうだった気がする。
人間の醜悪な部分ばかり見せられるモンド映画に出てくる人たちは、主に殺すか殺されるかについてしか考えていない事が多い。それが下卑たもの、あるいは社会を構築する善良なる人たちにとって有害な存在であっても、後藤は今、小熊の目の前で完成された生活を構築して生きている。
死なず心臓を動かし生きている。その事実を前にそれ以外の些末事は何の意味も無いのかもしれない。
小熊が何やらモンド映画の建前的な宣伝文句のような事を考えているうちに、後藤は深夜営業の中華料理店に到着した。
小熊は横目で、駐輪場に紫色に塗られたホンダ・ダックスが駐められている事を確かめながら店に入った。
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