第23話 バイクの色

 川崎北部の丘陵地帯に差していた陽光の最後の光が西の空に消え、体内時計が異常を検知しそうなほど遅い夏の日没が訪れた駐輪場。

 小熊は後藤が見せた紫のPCXを間近で眺めた。

 見た限り塗装はメーカーの製造ラインで塗られた、あるいは樹脂そのものを紫色で形成したものではない。紫のカラーリングは薄めた塗料を低圧のガスで吹き付ける缶スプレーの素人塗装でもない。プロがコンプレッサーに接続して使うスプレーガンで塗られていた。

 小熊の目は誤魔化せない。何故なら今まさにスプレーガンが欲しくてあれこれと探している最中だから。買って何を塗るのかについては、特に決めていない。 

 小熊はPCXの前にしゃがみこみ、普通のバイクなら真っ先に見る足回りを注視した。

 タイヤはほどよく減り、目視する限り空気圧も正常。サスペンションにはオイル漏れも見当たらずブレーキ周りも高価なアフターパーツはついていないが、パッドは純正ではなく安価な互換品ながら交換されている。

 実際の状態は触って転がしてみないとわからないが、見ず知らずの人間が乘るバイクにそんな真似をする事は許されない。


 小熊はPCXのエンジンを見てみた。スクータータイプゆえ大部分が外装部品で隠されたエンジンにオイル漏れは見当たらず、オイル注入口の周囲が汚れているのを見るにオイル交換はショップ任せでなく自分でやっている様子。

 ハンドル周りを見てみたところ、デジタルメーターのため走行距離は不明。サイドミラーの基部にはスマホホルダーが付いている。ワイヤー類を交換する時に着脱する幾つかのネジはドライバーの使い方が下手だったのか頭部が損傷していて、小熊なら次にいじる時にトラブルを起こさないように即座に新しいネジに交換するであろう状態だったが、少なくともワイヤー類も自分で交換しているらしい。

 目で見てわかる限り、プロの手で完璧な整備が施されているわけではなく、バイク愛好家が趣味でメンテナンスしているようも見えないが、かといって買ったままでもない。楽しく走るためではなく、壊れたら今の生活に致命的なダメージを負うが、整備を外注すほどの金はかけていない、本当の意味で生活の道具といった感じのバイクだった。だからこそ小熊には紫のペイントが不似合いに見えた。


 小熊は自分のカブを派手な色に塗りたいと思った事は無かった。雑誌などで見かけるオリジナリティを感じさせる色に塗装されたカブは、オーナーの愛着が感じられて楽しいが、高校時代から乗っていたカブ50の、市販のカブで最も多く見かけるグリーンは、不必要に目立つことなく匿名の存在になれるという小熊にとって重要な機能を果たしてくれていて、それは今乗っているカブ90や仕事先から借りているハンターカブも変わらない。

 小熊は自分のカブが紫に塗られた様を想像してみた。似合うかどうかはカブという車種ではなく乗っている自分のファッションやビジュアルによって決まるんだろうが、自分が紫色のカブに乗っている様というのはあまり頭に浮かばない。着る物もおそらく紫の補色を中心に買い替えになりそう。もしかして自分が後藤の職場のような、原付二種で通勤する人間が多い場所で働くならば、おそらくは他に何台も居るであろうスーパーカブの中から、すぐに自分のカブが見つけられるという機能もあるのかもしれない。それに目立つ色のバイクは盗んだ後の足がつきやすいため、気休め程度の盗難防止効果もある。

 それだけ考えれば紫のカブも悪いものではないんじゃないかと思ったが、カブは車体を全塗装する上で外さなくてはならない部品が多く、特に小熊が乘っているような鉄板プレスの旧型車体は、ほぼ全部分解することになることを思い、やっぱり紫色はやめとこうと思った。自分が将来犯罪に着手しなくてはいけなくなった時、手配書を背負って走っているような紫のカブじゃ逃げようにも逃げられない。


 PCXを前にあれこれと考えてる小熊を他所に、まだ勤務開始時間まで余裕があるらしき後藤は、広い駐輪場の何ヵ所かを指差しながら言った。

「ここにも紫のバイクがある、ほらそこにも」

 小熊が駐輪場を見まわすと。紫色に塗られたバイクが敷地のあちこちに駐められていた。

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