第21話 チキン
夏の遅い日暮れ。
冬ならもう既に夜の帳が下りている時間だが、まだこの季節の日没までには一時間ほど残した頃。
後藤はアパートを出て緩い登り坂を駅とは反対方向に歩き始め、まだ照りつけてくる日差しに早くも負けそうになっている。
労働の刻苦を味わうかのように歩き続ける姿は、小熊にとって地獄というものがこんな身近にあったのかと思わせるものだった。
金棒を振り回す鬼は居なくとも、生活という見えない鞭が後藤を彼女の意志とは関係なく前に進める。
小熊はちょうどいい負荷のかかるウォーキングを楽しみながら後藤の後を追ったが、後藤は唐突に口を開いた。
「夕食を済ませる」
後藤の現状について教えてくれた中村の話によれば、今から一時間ほど後の勤務開始時間から丑三つ時くらいまで続く。仕事先は電子部品の国内流通拠点で、提携している海外の工場からトラックで送られてきた電子部品の仕分けと梱包を行うという。雇用先はIT関連業種ではあっても業務内容はただの物流労働。先ほど後藤が食べた柿ピーだけで体が持つわけない。
昼間に働く人間なら朝食に相当する栄養補給を後藤は行っていない。小熊は彼女が心配になった。このまま栄養失調で倒れられては紫のバイクに関する唯一の情報ルートが失われる。小熊は歩調を早めて後藤に追いつき、肩に触れた。
「駅から街道に降りたとこにハンバーグレストランがある、奢るよ」
後藤は手を払い、心底馬鹿にしたような目つきで小熊を見ながら言った。
「いらない、いつも通りにする」
後藤はそのまま通勤路沿いにあるコンビニに入っていった。
店に入った小熊は冷房の効いた店内で一息ついたが、後藤は一直線に冷蔵ケースに向かい、サラダチキンを二つを手に取ってそのままレジに向かう。
レジ前で冷たい缶コーヒーを一つ掴んでレジカウンターに置いた後藤は、作業着の胸ポケットから決済のためのスマホを取り出したが、小熊が横から自分のスマホを持った手を突っ込む。
「ここは払わせて貰う、いいね?」
情報料と考えれば安い物。後藤は礼ひとつ言わず頷く。どちらかというとこの店でサラダチキン二個とコーヒーを買うという自分のルーティンに組み込まれた行動に、通常とは異なる異物が入り込んだことへの不快を示していた。
無論店員とは目を合わさず、一言も言葉を交わさず店を出る。店員がレジ袋の要不要をいちいち聞かないのを見るに、この近所に住んでいていつもサラダチキンとコーヒーを買いに来る労働者の一人として個体認識されているんだろう。
店を出た後藤は、再び登り坂を歩きながらコンビニで買ったサラダチキンの包装を剥ぎ、缶コーヒーのプルトップを開け、塩蒸ししたブロイラーの胸肉にかぶりつきながら歩き始めた。
通勤路でサラダチキンを食べ歩いている後藤を見ながら、小熊は先ほど後藤がハンバーグレストランへのお誘いを断った理由がなんとなくわかった。
後藤は食の楽しみという物の価値を認めていない。これからの労働に必要なエネルギーを摂取するために、わざわざ街道に降りてレストランに入り、席に案内されてメニューを見ながら注文し、ハンバーグの到着を待って食べるなんてことは、彼女にとって日々同じことを繰り返す平穏を不必要に乱す苦痛でしかなく、理解できない非合理的な行動なんだろう。
黙々とサラダチキンを食べる後藤に小熊は話しかけた。
「サラダチキンが好きなら、駅前のスーパーで鶏むね肉を買って自分で作ったほうが安くて美味い、作り方は教える」
一つの安定し完成された生活を目の前にして、自分のまだ未完成で不安定な生活を省みたせいか少々多弁になった小熊。後藤は飲みかけの缶コーヒーを作業服の胸ポケットに差し、もう一つのサラダチキンを開けながら言った。
「そんなことになんの意味がある」
川崎の北部で非正規雇用の労働と動画配信で慎ましい生計を立てている後藤にとって、自分で作る充実感や少々の価格差、収入の範囲で楽しむ贅沢などなんの価値も無い物なんだろう。
後藤が二個目のサラダチキンを食べ終わる頃、アパートから徒歩五分ほどの場所にある後藤の勤務先に到着した。
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