第20話 溜息

 小熊は作業着上下を身に着けている後藤から服を引っ剥がしながら言った。

「外に出るならシャワーくらい浴びろ」

 思えば入院時代も身綺麗にする事をすぐに面倒臭がる後藤に、こういう事を繰り返していた気がする。後藤からは体臭の類はしなかったが、一つの仕事を終えてもう一つの仕事をするというのなら、皮膚刺激で意識をリセットしなくてはいけない。

 後藤の勤務シフトについては事前に中村に確認していて、徒歩通勤ならまだだいぶ時間の余裕がある。

 後藤は渋々といった感じで服を脱ぎ、トイレ兼用の浴室に向かった。とりあえずユニットバス内は入浴が出来る程度の清潔さは保っているらしい。


 後藤が折り戸式のユニットバスの中でシャワーを浴びる音が聞こえてきたと思ったらもう出てきた。床に雫を垂らしながら寝室に入り、下着やシャツが積まれた山と別の山からタオルを引っ張り出す。

 室内に洗濯機は見当たらないが、アパートの向かいにあるコインランドリーで洗濯はしているらしい。ただ洗った服を畳むレベルにはまだ至っていない。山を見る限りアイロンが必要になりそうな服は見当たらなかった。

 後藤はシャワーを浴びるだけで体力をだいぶ消費したらしく、ひどく動きが緩慢なので、小熊はタオルを引ったくり全身を拭き、なぜかバスルームじゃなく半ば崩壊した本棚に置いてあったドライヤーで乾かす。

 後藤のむき出しのお尻を見ながら、彼女が男の好むような女としての魅力が皆無かといえば、案外そうでもないんじゃないかと思った。

 後藤はシャワーを浴びて洗濯済みの下着とシャツを身に着け、機械を扱う仕事ではないらしくそれほど汚れていないグレーの作業着上下を身に着けると、幾らかマシな姿になった。


 これでも後藤はバイト学生の小熊とは違う。自分の力で働いて、生活レベルは高いとはいえないが自立した生計を営み、自らの能力で副業まで始めている。

 後藤は小熊の着ているパッド入りライディングジャケットの十分の一もなさそうな混紡作業着の重みで猫背になっているが、これから行う労働に備え堅実に体力温存しているようにも見えなくもない。

 後藤は山の奥の方から靴下を両方分見つけ出すのに時間がかかってる様子だったが、ようやく作業洋品店でよく見かける軍足を二つ見つけ出して素足に履く。

 PCデスクの上にあるスマホと財布、キーリングをフラップつきの胸ポケットに入れて出勤準備を終えたらしき後藤は、玄関に出てスニーカー風の安全靴を履いた。


 玄関にあったのは同じような安全靴が二足と、百均で売ってそうなサンダル。それだけだった。きっと後藤はそれで足りている。

 小熊も自分のスニーカーを履きながら言った。

「後藤が見た紫のバイクはどこにあるのかな? バイクで来てるから送るよ」

 後藤は玄関を見て長い溜息をつき、それから意を決したようにドアを開けながら言った。

「いらない、歩いて行く、すぐだから」

 きっと後藤はこんな溜息の時間を何度となく繰り返し、行きたくない仕事に行っていたんだろう。もしかしたら高校に通っていた頃からそうだったのかもしれない。

 

 ただ、後藤がモンド映画の配信でどれだけの収益を得ているのかはわからないが、後藤を人たらしめるためには、当分の間はこの街で労働に勤しみ生活の糧と機材費用に足る賃金を得るために、家を出るたびに溜息をつく時間は必要なんだろう。

 毎日外に出るために身なりを整えることすらしない生活をする人間は、すぐに壁と話をするようになる。

 今は早番夜勤の仕事をしているという後藤が幾らか健康的な昼勤務になったとしても、それは溜息の夕暮れが溜息の朝になるだけのこと。

 どうやら小熊が追っている紫のバイクの謎に到達すべく、薄っぺらく軽いが、開ける人によってはとても重い玄関を開け、夕暮れの残り日に早くも歩く気力を失いかけている様子になっているらしき後藤の背を追った。

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