第17話 ネズミ色

 川崎北部の小汚い木造アパートで、ダイニングスペースの床に座りながら小熊と後藤のティータイムが始まった。

 小熊は一応礼を言って缶紅茶のプルタブを開け、柿ピーの袋を破る。

 今抱えている調べものの情報源としての価値しか認めていない後藤とのアフタヌーンティーは、環境のせいか淀んだ空気のせいか、お茶も茶菓子も栄養補給以外何の用途も果たさぬ味しかしなかった。


 小熊の目の前で汚れた浴衣姿のまま横座りする後藤は、積極的に会話を先導する意志など全く無い様子。一応は全くの他人というわけでもないが、平穏な暮らしを乱す侵入者以外の何者でもない小熊の様子を窺うように、小熊を見ては目が合うと視線をそらすという行動を繰り返していたので、とりあえず居心地まことによろしくない今の時間を早々に終わらせるべく、後藤に言葉をぶつけた。

「紫のバイクって知ってる?」

 後藤は視線を左右に泳がせ、落ち着こうとするかのように缶紅茶を飲んでいる。

 これは知らない人間の反応じゃないと小熊は思った。

 

 小熊が一緒に入院していたという薄い縁だけで、このアパートまで後藤に会いに来たのには理由があった。

 あの自宅近くの墓地の中を通る坂で一瞬すれ違った紫のPCX。小熊自身が紫のバイクというものに、南海がそれについて調べているという理由以外の事で全く興味が持てなかったので、車種の詳しいモデルや改造仕様、乗っている人間の体格やライディングギアの詳細はわからなかったが、着ているウェアだけは見覚えがあった。ネズミ色の作業服。

 小熊には夜闇の中で目立たない黒っぽい服としか認識できなかったが、あの色は漆黒ではない。


 黒は人間の網膜に長く残る色で、夜に目立たない服かと言えばそうでもない。人工の光が当たれば逆に他の色より目立ってしまう事は、高校時代黒いフュージョンに乗ったバイク便社長の浮谷と何度も一緒に走った経験からよく知っている。おそらくあの紫のPCXに乗っていた人間は、黒じゃなく濃い灰色のような色の服を着ていた。

 服自体の形も、かつて同室で入院していた後藤が病室にハンガーで掛けていたために何度も見た作業ジャンパーのもの。後藤はその仕事着を入院中は見たくもないと言ってたが、その割に目につくところに掛けていた。その気持ちは小熊にもわからないでもなかった。嫌で嫌で仕方ない仕事に苦しめれる日々も、急病や怪我で平穏を奪われると、途端に一刻も早く取り戻したくなる日常の象徴となる。小熊は他の病室でも、ブラックな職場のせいで入院した人間がベッド脇にスーツを吊るしていた入院患者が、病院のパジャマを脱いでスーツに着替えられる日を指折り数えて待っている様を何度か見た。


 小熊自身は着た事が無いが、高校で同級生だった礼子が大規模震災時に作業ジャンパー姿になった閣僚の姿を幼少期にニュース動画で見た事で衝撃を受け、ハンターカブのライディングウェアとして愛用していた事で馴染んではいた。PCXに乗っていた人間が着ていたネズミ色の作業ジャンパーは、確かに後藤の仕事着と同一の物。胸にあるであろう社名の刺繍までは見えなかったが、所属している派遣会社が変わらなければ、作業着はほぼ変わらない。中小の町工場で派遣社員のためにユニフォームを用意している所などそうそう無い。

 後藤はあの紫のバイクに乗った人間と近いところに居る、そんな確信とも狐疑ともつかぬような考えでここに来たが、もしかしたら最初のクジで当たりを引いてしまったのかもしてない。


 後藤は小袋をひっくり返して柿ピーを口に流し込み、辛いと言うより苦そうな表情で嚙み砕いた。

 小熊が飲んだ感想では甘すぎて舌が腐りそうだとしか思わなかった缶入りミルクティを苦味を我慢するような表情で飲み下し、ゴミ箱の類が見当たらないダイニングの床に袋を捨てた後藤は言う。

「わかった、紫のバイクに乗った奴らについて知ってることを教える。でも仕事が終わるまで待って」

 小熊は首を傾げた。今は後藤のサポートをしているという中村の話では、電子部品の配送分類をしているという今の後藤の職場での勤務シフトは二十二時から。もしそこから朝三時だという勤務明けまで待たされるようならさっさと帰って情報は後でLINEででも教えてもらおうと思った。何よりいま居るこのアパート一室の居心地は耐えがたいものがあり、小熊は早く逃げ出したかった。


 後藤はダイニングの床から立ち上がり、小熊から紅茶の缶をひったくって自分の空き缶と一緒にゴミ箱の役を果たしてるらしきビニール袋に捨てる。それから隣にあるリビングとダイニングを仕切るべニヤの引き戸を開けながら言った。

「もう一つの仕事、すぐ終わる」

 小熊はリビングより清潔とは思えない彼女の居間兼寝室をあまり見たくないと思いながら、後藤についていくように室内に足を踏み入れた。

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