第10話 宿題
届けられたパンケーキを南海と分け合いながら、小熊は話し続けた。
「南海が幣亭翠に恩義を感じているのはわかるし、そういう借りの返済についてはきっと私より南海のほうが上手い、でも、そのために南海の身を危険に晒すことはするべきじゃない」
南海は抹茶のパンケーキに何もつけずに食べ、たまにダージリンティーを口に運んでいる。
パンケーキの控えめな甘味とほろ苦さ、紅茶の甘さと苦さ、二種類の甘味と渋味を楽しんでいた。
南海はテーブルの端にあるペーパーナプキンを一枚取りながら、小熊の問いに答えた。
「わたしだってサークルに忠誠を尽くす奉仕者になろうとは思っていません。手に入れたいものがあるんです」
南海はペーパーナプキンで口を拭った。リップのいらない女だと思った、彼女の唇は生来の桜色を授かっている。
小熊は抹茶色のパンケーキをナイフで切り刻み、メイプル風シロップとマーガリンでベタベタに汚したケーキの切れ切れ端を口に放り込んだ
「聞きたいな」
どんな理由であれ、南海が何か危険なことをしているなら、曲がりなりにも年長者として止めなくてはならないと小熊は思った。それで彼女が何かを取り逃したとしても彼女の身の安全には代えられない。
南海は向かい側の席から身を乗り出し、さっき自分に使ったペーパーナプキンで小熊のシロップとマーガリンで汚れた口を拭いた。
小熊はもう少し南海の話を聞いてあげていいのかもしれないと思った。そこに何かの危険があったとして、バイクという危険要素の塊に乗っていれば今更の話。
南海は使い捨てのペーパーナプキンを丁寧に折り畳んで皿の端に置き、それから小熊の目を見つめながら言った。
「本郷の大学での、私の立場についてです」
南海はそれから、紅茶をもう一口飲んで話し始めた。
「わたしは現在、微妙な立場に居ます。サークル内じゃなく大学の中で」
小熊もジェニーに聞いたことがある。他校、しかも公立高校の生徒が本郷のキャンパス内に出入りする事をよく思わない人間が居ると。
南海は深夜徘徊という物珍しい趣味を愛好するナイトピクニックサークルに加入して以来、サークルメンバーとは同じ楽しみを共有する者として長らくの友人のように喋れるようになり、特にサークル部長の森脇に関しては、南海はサボりたがりの彼女に言うことを聞かせる唯一の人間と言われ、信頼されている。
しかし、それをよく思わない人間も少なからず居るという。
本郷の大学で節約、節制を旨とするサークルの部長である幣亭翠と彼女が親しいことも無用の軋轢を生んでいるらしい。
小熊には到底信じられないが、幣亭翠は学生や職員の間でそれなりに人気があるらいし、確かに体が小さくてすぐキャンキャン吠える様は、見る人が見れば可愛らしいと思えなくもない。
副部長として翠の傍に居るジェニーは、信じられないというよりタチの悪い冗談でも聞いたような声で「あいつら」はこの暑さで頭が沸いてるんじゃないかとまで言っていた。
彼女は今まで何度翠をミカン箱に詰めて神田川に流したくなったかわからないという。それに関しては小熊にも気持ちはわかる。
南海は自分の置かれている微妙な立ち位置について、たまにナイトピクニックサークルの部長代行を務める翠に相談したらしい。彼女の回答は明快だった。
「つまらないことを言ってくる奴が居たら黙らせればいい」
小熊と似ていなくもない考え。きっと今までも彼女はそうして来たんだろう。
南海は紅茶を飲み干し、抹茶のパンケーキを残らず食べた。それから小熊に言った。
「私はその紫のバイクについての論文を書きたいと思います」
大学において力を行使する手段として二番目に説得力のある方法。教授の査読や学会提出を行わない私的な論文なら大学に在籍しない人間でも書けるし発表も出来る。一番の方法である鉄パイプと火炎瓶に関してはいささか今時の流行りからは外れてる。
パンケーキの切れ端で皿についたシロップやマーガリンを拭きとり、口に放り込んでファンタで流し込んだ小熊は、南海に言った
「それが南海の、夏休みの宿題になるんだ?」
吉村南海は頷いた。
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