第9話 パンケーキ

 小熊はドリンクバーのカウンターで、南海の温かいダージリンティーと自分のファンタグレープを注いで席に戻った。

 南海は小熊が目の前に置いたダージリンティーの香りを楽しみ、小熊に礼を述べる。

 紅茶が南海に気に入って貰えるか少し心配だったが、以前彼女が見せてくれた深夜散歩の画像の中に、南海が自販機で紅茶を買う姿があった記憶を何とか頭から引っ張り出し、缶紅茶よりいくらかマシだろうと思って選んだ。紅茶の銘柄なんてわからないが、どうやら外れは引かなかった様子。

  

 南海は温かいダージリンティーを、小熊が添えたクリームや砂糖を入れることなく一口飲み、香りを楽しむように微かに息を吐いた後で小熊に言った。

 「私はその紫のバイクについて知りたいと思います」

 小熊は自分で注いできたファンタグレープのグラスを見つめながら答えた。

「南海は何で、その紫のバイクとかいう噂話に興味を持ったの?」

 言った後でファンタグレープを一口飲んだ。紫の液体を一口だけ飲んでテーブルに置く。残りも飲みたくなってくる。


 夏の気温と湿度で失われるのは水分と塩分だけでない。糖分も暑くなると体から失われる。礼子の話を信じるなら熱帯の国では店で売っているお茶にも砂糖が入っている。無糖のお茶に慣れていると最初は驚くが、現地の気候に体が慣れていくに従って、自然と甘いお茶を求めるようになるらしい。バイク便の仕事で出会った客先の高齢者にも似たような話を聞いたことがある。今ほど暑くなかったが冷房なんて一般家庭や職場には無かった昭和時代は、薬缶ごと井戸や湧き水で冷やした麦茶やハブ茶に砂糖を入れて飲んでいたとその人は話していて、近くに居た同年代の人も同意していた。


 向かいの席で何度か紅茶に口をつけていた南海は、ダージリンティーが少し冷めて香りを楽しむ適温から飲むのにちょうどいい温度になった頃合で砂糖を一袋入れた。 

 南海はクロムメッキのティースプーンで紅茶を慎重に混ぜながら答える。

「私は幽霊とか異能力のような、そういう超科学、超心理学的な物は物質的に存在しないと思っています。でもそういう物を見てしまう人間の心理や生理現象は存在するんじゃないかと思います。夜はそういう感覚を拡大してくれる時間だから」

 南海の言葉は小熊にも身に覚えがあった。

 確かに夜はバイクで走っていても変なものを見ることがある。大概は人工の光が天候や周辺物の影響で不自然なものに見えた記憶。特に道端にある警官の恰好をしたマネキンやパトカーに見せかけた立て看板。あれは心臓に悪い。

 夜中の踏切が不意に鳴り始めた時は、回送電車や工事車両だということはわかっていても何が来るのか見てみたくなる。たまに突然の運休で遅延した普通電車が通った時は、あの電車や青白い灯りの中の乗客は、本当に前の駅からやってきて次の駅に行くんだろうかと馬鹿げた考えが浮かぶことになる。きっと電車の乗客も、こんな夜中にバイクに乗っている女子のことを気味悪く思っているのかもしれない。

 

 小熊は飲みものだけでな何かデザートでも頼もうかと思い、メニューを取りながら言った。

「だからその紫のバイクについて知りたいと思ったのかな? オカルティックな噂に隠された正体を見てみたいと」

 南海は小熊は開いたメニューを指さし、チーズケーキにするかストロベリータルトにするか迷う仕草をしながら言った

「実はこの話も、半分くらい翠さんの受け売りですけどね、紫のバイクについて調べようとしている翠さんのお手伝いをしたいと思ったんです」

 小熊は目についたデザートメニューを指しながら言った。

「この抹茶のパンケーキを頼もう、一人で食べるには多すぎるから二人でシェアしよう」


 それほど甘い物を好まない南海も、甘さ控えめで適度な渋味のある抹茶パンケーキなら喜んでくれるだろう。それに小熊は無性に緑色のパンケーキにフォークをブっ刺し、ナイフで切り刻んでやりかたった。

 南海は小熊の気持ちなどとっくに見透かしていそうな目で小熊を見つめ、それからボタンを押して店員を呼び、抹茶のパンケーキを注文した。

 小熊はなんだか自分が南海にお菓子を与えられ、あやされているような気分になった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る