第8話 ドリンクバー
南海の言葉のせいか店内の冷房のせいか、少し小熊の背筋が冷たくなった気がした。
肌を火傷のように焼く太陽が落ちたからといって、ジャージズボンの上にTシャツ一枚で出かけなくて良かった。
どっちにしてもバイクに乗っていて肌を露出させた服を着る事は少ない。比較的少ないというだけでTシャツやショートパンツでバイクに乗って出かける事が無いというわけでもないが。
向かいに座る南海もずっと手編みのカーディガンを脱いでいない。季節外れにも見えるサマーウールが夏のアウターとしても優れていることは小熊も知っている。通気性や紫外線に対する防御性にも優れていて、それなりの手間をかければ家庭でも洗濯出来る。バイクに乗る時も転倒時の耐摩擦性や耐熱性は良好。特にこういう冷房の効いた店内で長居する時には大いに役立つ。
もしここに礼子が居たら、ショルダーパッチのついたミリタリーセーターを愛用していた礼子から、冒険におけるウールの実力についてうっとおしく語るのを聞かされていただろう。
小熊がそう思っていたら、南海はあっさりカーディガンのボタンを外して脱ぎ、畳んで傍らに置いた。桜色のカーディガンの下は無染色コットンのTシャツ。
小熊としては南海のカーディガンに隠された女性らしく豊かな曲線を出来るだけ人前に晒したくなかったが、南海は周囲の客や店員から集まる視線に気づいてない様子。
小熊は自分のジャージのジッパーを下ろし、脱いで席に放り投げた。小豆色のジャージの下は派手なTシャツだが、バイク部品メーカーがサーキットイベントで無料で配っていたTシャツは生地も薄っぺらく、着ているものも中身も安物っぽい自分に人の目が集まる感じが全然しない。
バイク乗りがTシャツを着るのは、安くて便利だからという理由だからではなく、バイク整備用の雑巾を作るためでもある。
機械整備には住宅の掃除に使うようなタオル雑巾は厳禁。精密な部品の隙間に糸くずが入り込むとつまらないトラブルを起こすことがある。
整備しているバイクや手指を拭く雑巾は、本職のプロならリースの化繊布。小熊のように趣味でバイクをいじる人間は、キッチンペーパーや理系学生に多大な支持を受けている工業用清拭紙キムワイプ、あるいは着古したTシャツを使っていて、小熊のガレージにも何枚もある。
シャツ一枚になっていくらかリラックスした小熊は席を立ち、南海のグラスを手に取って言った
「おかわり、何がいい?」
南海は相変わらず人を魅了する微笑みを浮かべながら言った。
「温かいお茶が欲しいです。小熊さんにお任せします」
あと何杯かのお茶を飲むくらいの時間は一緒に居てほしいという小熊の気持ちに南海は気づいてくれたのか、他の客と交わることも多いドリンクバーのカウンターにできるだけ南海を行かせたくないというやや邪な心については、まだ気づいて欲しくないと小熊は思った。
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