第7話 アイスミルク

 小熊は今日二杯目のコーヒーを一口飲み、スマホを取り出してテーブルに置いた。

 コーヒーやカフェインの入っているお茶は一日二杯までと決めているが、どうせもうすぐ一日が終わる。

 紫のバイク。小熊の覚えている限り純正色としてパープルを設定しているバイクは幾つかあるが、そう多くは無い。

 塗装屋に持ち込んだり自宅で缶スプレーを吹いたりして紫色に塗っているバイクもあるが、紫はカラーコーディネート的にも塗料の耐候性といった点でも扱いが少々難しい。

 あと一つ思い当たるとすれば、車体外装が紫なのではなくLEDやネオンで紫色のライトアップをしているバイク。こっちは紫色にペイントしたバイクほどはレアじゃない。


 小熊は自分のスマホに中古バイクの販売サイトを表示させた。車種やメーカー、排気量や販売地域だけでなく、車体色からでも候補を絞り込める。カラーチャートからパープル系をタップする。結構な種類のバイクが出てきた。

 小熊がスマホを出すのとほぼ同時か少し早いタイミングで、南海は自分のスマホをカーディガンの胸ポケットから取り出し、ごく短い単語を打ち込む。 

 紫 バイクというワードで画像検索した南海は、小熊より多くの種類の紫のバイクをスマホに表示させる。

 小熊はだいぶスマホの扱いに慣れたが、使い始めた高三の夏からまだ一年足らず。南海は小学校高学年の頃からスマホを使っていると聞いたことがある。

 コーヒーを半分ほど飲んだ小熊は、もう一杯コーヒーを淹れたくなったが、とりあえず冷たい水を飲み、南海に聞いた。

「何故、紫のバイクに興味が? 今乗ってるカブを紫に塗りたくなったのかな?」


 バイクのドレスアップテクニックとしては定番のオールペンと呼ばれる車体塗装。素人や町の塗装屋がどう頑張ってもメーカーの塗装ライン以上の質を望むのは難しく、多くの場合バイクを手放す時の買取評価額が下がるが、乗り手の愛着や心理効果への影響は少なからずある。

もしも南海が望むなら彼女の乗っているカブをラベンダーや葡萄のような綺麗な紫に塗り、この世で一台だけの紫のカブを作ってあげてもいいと思った。それは言い訳で、自宅ガレージにあるエンジンコンプレッサーに繋げられるペイントガンが買いたくなっただけ。


 コーヒーの苦さを打ち消すような、いささか甘ったるい考え事をしていた小熊。黒烏龍茶の香りを楽しむようにグラスを掲げた南海は、透明なグラスに満たされた琥珀色の液体越しに小熊を見つめながら言った。

「今のカブの色を変えるつもりはありません。小熊さんが私のために選んでくれた色を私は気にいっています」

 だらしなくにやけてしまいそうな顔を引き締めるために、小熊はカップに残ったコーヒーを飲み切る必要があった。

 確かに南海の桜色のカーディガンに淡いブルーのカブは、まるで青空の下に咲く桜のようによく似合っていて、その調和を変えるのは野暮もいいとこだろう。小熊は自分がちょっと散歩する気持ちで着てきた阪急電車のようなマルーン色のジャージを摘まみ、窓の外に停めてある自分のグリーンのカブを一瞥した。こっちは似合っているのかわからない。


 南海は横を通りがかった店員を呼び止め、ドリンクバーに無いアイスミルクを注文した。そういえば南海はハンバーガーショップでもアイスミルクを頼んでいたことが何度かある。美味しくて好きで飲んでいるのかと思って尋ねたことがあるが、南海は「安心できる飲みものがそれだけだからです」とだけ答えた。

 南海はすぐに届いたアイスミルクを小熊のほうに押しやった。目の前でブラックコーヒーを二杯飲んだ小熊を心配したのか、この後安眠できるようにという気配りなのか。

 小熊が南海に一言礼を言ってミルクに口をつけると、南海はお茶の入ったグラスを弄びながら言った。

「紫のバイクのお話は、翠さんから聞いたんです」

 お茶や水より保冷性の高い白い液体が、小熊の喉から胃に落ちる。小熊はアイスミルクのグラスをテーブルに置き、南海に話の続きを促した。


 南海の話は相変わらず理知的でわかりやすいものだった。幣亭翠が自分の通う本郷や駒沢のキャンパスで、紫のバイクに乗る集団を目撃したという噂話を聞いたらしい。

 民俗学、心理学的な興味を抱いたがバイクについては全く疎い翠は、南海に何か知っている事があれば教えてほしいと頼んできたという。

 あのケチが服着て歩いているような翠が南海に鰻重をご馳走したのは、そういう頼み事も込みの話なのかと小熊は思ったが、南海はナイトピクニックサークル入会の件で翠に恩義を感じていて、自分に出来る事があれば助けてあげたいと言う。


 小熊としてはうさんくさい調べものに関わりたくはなかった。自分はまだ翠に鰻丼さえ奢って貰っていない。

 とりあえず多少なりともバイクを知っている人間として、助言はしておくことにする。

「調べるのはいいけど、家で出来る範囲に留めておいたほうがいい。どこかに調べに行くような事はしないこと」

 バイクを愛好する人間は、徒党やチームを組むことが多い。趣味を同じくするバイク乗りの走行会イベントや、林道などで相互援助するための複数走行。よくカブ仲間と三人で走っていた小熊も、その中に入るんだろう。

 ただし時にそういうバイク集団は、犯罪行為ととても近い位置に居る事がある。これは国内外変わらない。

 翠や南海が知りたがっている紫のバイクも、そういう集団の一種なんだろう。同じ色の服を身に着けて犯罪に着手するカラードギャングの真似事をする人間がバイクに乗っていたとしても不思議じゃない。


 南海は黒烏龍茶を飲み切り、それから言った。

「ただ紫色に塗っただけのバイクなら少数ですが珍しいものでもありません。その紫のバイクは、決まってオカルトスポットと呼ばれる場所に現れるんです」

 小熊は今飲んだアイスミルクが腹の中を冷やされる気分を味わった。

 夏に涼を求める方法は色々ある。冷房とかプールとか氷割りのジンライムとか。

 あるいは、怪談とか。

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