第5話 涼
ファミレスの店内に入った小熊は、気温が低く乾燥した店内の冷房を味わって一息ついた。
客席は夕食時らしくそれなりに混みあっていたが、二人組ということでさほど待つことなく客席に案内される。
店の最奥にある二人席だったが、トイレや従業員の通用口に近い席は周囲の喧騒がそれほど耳障りではなく、小熊や南海はこういう少し孤立した席のほうが居心地がいい。
ほどなくお冷やが届いたので、注文は後にすることを伝えて、氷入りの水を飲んで一息ついた。
向かいに座る南海はご馳走を味わうように冷えたグラスを頬に当てている。やっぱり東京の水は悪くない。水が美味いと思えるほどには過酷な暑さだと小熊は思った。
小熊は窓の外に見える夕暮れの国道と駐輪場に並んだカブを眺めながら、舌と喉と肌で涼しさを味わっていた。
山梨北杜に住んでいた頃、過酷だった冬を乗り切るために必要なのは優れた防寒具、そして暖房のある休憩所だった。
アイスホッケーや水泳の選手、あるいは冷凍庫で働く人間も定期的に採暖室で休憩する。そういうマネジメントを人任せに出来ないバイク乗りは、体力を使い切る前に冬はファミレスやファストフードショップなどの暖かい場所、夏は涼しい場所で休憩しないと、管轄する警察署が計上する交通事故によるけが人の数をひとつ増やす事に貢献することになる。
あるいは、けが人の隣に表示されるもう一つの数字かもしれない。
少なくとも小熊は休憩の重要性については、高校時代に在籍したバイク便会社の浮谷社長に教えられた。社長自身が暑さ寒さにすぐ音を上げてしまい、おやつの時間を取らないとまともに動かないならば、必然的に休憩場所の設定をするようになる。
とりあえず小熊はメニューを手に取ったが、夕食は先ほど済ませたばかり、メニューを指さしながら南海をに視線を送ると、やはり夕食は済ませたらしい彼女は頷き、テーブルの上のボタンを押した。
小熊は店員に注文を伝える。
「ドリンクバー、二つで」
店員が「お会計は?」と聞いてきたので、「別々で」と伝えると南海も頷いた。
彼女は不必要に奢られると少し委縮してしまう性格だし、対等の存在として扱われるととても嬉しそうな顔をする。
何よりつい先日小熊が受注した原付デリバリーマニュアルの監修で得た報酬を、歩行者視点からの助言で協力してくれた南海と山分けしたこともあって、お互いある程度纏まった金は持っていた。
店員がプリントアウトした伝票を置いて去った後、小熊と南海は立ち上がってセルフサービスの飲み物を取りに行く。
南海はまだ放課後にファミレスでお茶を飲むという行為に少し緊張しているらしく、小熊の後ろをついてくる。きっとバイクに乗れば、そんな事はあたりまえの日常になる。深夜散歩という趣味で家の前にあるハンバーガーショップによく行っている南海なら、小熊よりずっと馴染むのが早いだろう。
小熊と対等の存在であろうとする南海、小熊はといえば南海と対等であり続けるには必死になって這い上がらなくてはならない。小熊はそうしたいし、そうするのが楽しくてたまらなかった。
小熊はホットコーヒー、南海は冷たい緑茶を注いで席に戻った。
ジャージの上着を脱いでTシャツ姿になり、コーヒーを飲んで人心地ついた小熊は、向かいでサマーウールのカーディガンを着たまま緑茶を飲んでいる南海に話しかけた。
「今日はどこに行ってたの?」
南海はくすくす笑いながら、聞いてほしいといった感じで話し始めた。
「翠さんに呼ばれたんです、森脇ちゃんがまた実習に出るのをいやがってるから、叩き起こしに行って欲しいって、あいつは南海の言う事なら聞くからって」
小熊が仲立ちしたことで南海とも親交を結ぶことになった、文京区本郷の国立大学にある深夜徘徊の愛好家集団ナイトピクニックサークル。南海はサークル部長の森脇や部員とも着実に交流を深めているらしい。それにしても、南海があの幣亭翠の頼み事を聞くとは小熊にとって意外だった。なんとも厄介な女で、一つ面白い事があるとすれば、小熊の出入りしているサークルの部長、竹千代と犬猿の仲だということくらい。あの竹千代という女は何か一つ弱みでも握っていないと安心できない。
南海は小熊の興味を惹かれたような表情を敏感に感じ取り、一口お茶を飲んだ後で言った。
「翠さんはとても素敵な人ですよ、話がとても面白い」
小熊には想像できなかった。何度か会った記憶が確かなら、彼女が南海の知見を広げてくれるような言葉を吐く様は到底思い浮かばない。
南海は小熊の抱いた疑問に明快な回答を与えるように一言添えた。
「いつも何かに怒ってて」
容易に想像がついた。
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