第2話 COOL!
家に入った小熊は、さほど外と変わらない室内の気温を何とかすべくエアコンを点けた。
小熊は大学進学のため山梨から東京に引っ越すに当たって、幾つかの心配事があった。
水と暑さ
小熊の知己の範囲で、東京で暮らしていたことのある人間は口をそろえて言う「水は不味いよ」「夏は暑いよ」
正直なところそれを聞いても、心身に危機の及ぶ致命的な問題というわけじゃないとしか思わなかった。
自分の未来をより良くするための大学進学を、そんな下らない理由で諦めるわけにもいかない。
少なくとも水に関しては、実際に東京の水道水を飲んでみると思ったよりひどいものではなかった。蛇口を捻ると南アルプスの天然水が出てくる北杜とは天と地の差だが、水は渇いて飲むもの。生きるために摂取する水は衛生さえ保たれていれば気にならないし、いずれ酒を割ったりチェイサーを飲んだり、水の味を楽しむようになったら浄水器かウォーターサーバーでも買えばいい。
米を研いで炊いた時の味が北杜に居た時と微妙に異なるのは少々不満だが、それについては気が向いたら何とかしようと思った。
それより、暑さ。
ここ数年で随分気温が上がったという東京の暑さは予想以上で、少し年を食った知り合いから聞いた、夏は毎日学校のプールで日光浴していたとか、夜は窓を開けて蚊帳を張ればエアコンなどいらないくらい涼しかったという話が、どこか違う国の話をしているように思わされる。
とりあえず今の自分は文明の利器に頼ろうと思い、部屋のFMラジオとエアコンを点けた小熊は汗臭い服を脱ぎ、バスルームに飛び込んだ。
熱いシャワーで体と髪を洗い、冷たい水のシャワーで体を引き締めた小熊はバスルームを出た。FMがボサノヴァを流す部屋はエアコンのおかげで快適な気温に保たれていた。
小熊はこの部屋を賃貸するに当たって、初期投資として対応面積に余裕のあるエアコンを買い、取り付けた。
鉄筋コンクリートのマンションに比べ、断熱性では一歩譲る木造平屋。部屋が冷えにくいならエアコンの出力で補えばいい。
そういうことは小熊が馴染み深いバイクでもよくある。足回りや車体が走る場所に合わないなら、エンジンパワーで何とかする。
バイクパーツメーカーの販促Tシャツとカーキ色のショートパンツを身に着けた小熊は、夕食の準備を始めた。
外はまだ陽の光が残っているが、FMラジオは夜の時間になった事を告げている。
先ほどカブで街中を走り回った帰路の肉屋で買ってきた分厚いハンバーグを焼き、仕上げにバーベキューソースで煮込んでチーズ、レリッシュと共に食パンに挟み、サンドイッチが焼けるトースターを持っていないので水で濯ぎパターを少し落としたフライパンで焼く。
キャベツを刻みブラックオリーブ入りのドレッシングと和えたコールスロー・サラダと焼きあがったハンバーガーを檜のカウンターテーブルに並べ、冷たいドクターペッパーをグラスに注いだ小熊は夕食を摂り始めた。
iPadが動画を流すバーカウンターでスツールに座った小熊は、コールスローを頬張りハンバーガーにかぶりつきながら、今の自分にとってエアコンから流れる冷たい風が、バーベキューソースで味付けたハンバーガーに劣らぬご馳走だと思った。
カブで灼熱の太陽の下を走り、釜で茹でれるような気分を味わってから一時間足らず、今の自分は涼しい部屋で夕食を楽しんでいる。
まるで先ほどまでとは別の世界に居るような快適な時間。とりあえず今は大学の課業もバイク便の仕事も、すぐにやらなくてはならないものは無い。
幸せな空間での満たされた暮らし、今の自分に足りないものは無い。そう思った小熊はハンバーガーとコールスローをドクターペッパーで流し込み、皿を洗って片付けた。
そのまま小熊は、ダイニングスペースの隣にある畳敷きの寝室に架けてあったジャージ上下を身に着け、スマホや財布の入ったウエストポーチを肩から掛け、玄関横に置いてあるヘルメットを手に取った。
今の自分の暮らしには足りない物など何もない。そう思った小熊が一つだけ思い浮かんだささやかな不足と不満。
バイクに乗りたい。
好きな時に好きなだけバイクに乗れないのでは、満たされた暮らしとは到底言えない。
日の暮れつつある時間に通勤の帰路で混雑しているであろう外を走って、何か用があるわけでもなかったが、きっと走っているうちに行きたい場所が決まる。
さっきまで夏の西日に焼け死ぬような思いをしたが、夜になれば涼しく快適なライディングが出来るだろう。
そう思った小熊はまだ昼間の汗の残るヘルメットを被り、玄関を開けて外へと歩き出した時に気づいた。
夜は夜で暑い。
それでもバイクに乗りたいんだからしょうがない。
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