第4話 怒れる宇宙遊泳

 タクシーを呼んだとはいえ、上下左右にぐるぐる回る、いわゆる回転性めまいに襲われていた私。

 立って歩くのも一苦労です。生まれたての子鹿のほうがまだ立ててました。

 そろそろと立ち上がろうとすると、まるで頭がすごく重い人のように倒れてしまいます。こういうときは、私の場合、そろそろと歩こうとする方がまちがっているのです。気合いだ。類人猿の姿勢をとるんだ。ご先祖様の力を借りて一気に玄関まで歩くぞ、オエー……(大丈夫、ちゃんとビニール袋を手に持たされてました)。

 何とか玄関にたどり着き、サンダルをつっかけて、階段を降ります。慣れた階段なので、見てなくても大丈夫、と目をぎゅっとつぶってみました。だめです。回転性めまいはまぶたを閉じた暗闇の中まで追ってくるのさ。君を離しはしないぜ。サイテーだ。正直、どうやって階段を降りたのかわかりません。無事にタクシーに乗り込みました。

 ほっとした途端に、とんでもない吐き気が襲ってきます(大丈夫、家を出るときに新しいビニール袋を持たされていました)。しかも、車ってカーブとかブレーキの度にGがかかるのよ、死んじゃう。

 後部座席でえらいことになっている私に、「えっ、走っちゃっていいですか」とびっくりする運転手さん。「あはは、大したことじゃないんで早く病院に」と本心がどこにあるのか分からない返しをする父。娘への愛はありますか? そうですか。でも、お父さんが晩酌前に気づいて飲んでなければ、自家用車で病院に行けたのですよ、ご理解いただけて?


 かかりつけの医院には、すでに閉まっている時間なのに明かりが灯っていました。このとき、「お休みのところを申し訳ない」と思う善良な市民の感情は残っていました。

 誰もいない待合室を抜けて、診察室の隣にある処置室に案内され、診療用のベッドに横になります。

 助かった、と正直思いました。

 きっと、なんらかの処置がされ、めまいと耳鳴りと吐き気から解放されるだろう、と。

 私は、論理的思考回路を失っていたのです。

 なんで、先生が往診してくれなかったのか。

「いやー、しんどそうだねー」

 にこにこ顔で表れた先生は、ちょっといつもよりずいぶんご機嫌でした。

「家で静かに寝ていたんですが、ちょっと様子が変で、めまいがするって言うもんだから」

(このあと、1行分、空白。※初期形に、父と先生のやりとりあり。)

「メニエール症候群だなあ、こりゃ。しんどそうだ」

「そうですかねー」

「そりゃしんどいでしょ。見りゃわかりますよ、吐いてるもん」

 判断基準はそこですか。もっと顔色とか脈拍とかないんですかね? こんな時間に来ている以上、もう、ありがたい以外の感想はないですけど。

「じゃ、今から注射を打ちますけどね、すぐ寝ちゃう薬だから、すぐ車に連れていってくださいね」

「え? いや、タクシーなんで、家に帰るまでに寝ちゃうかも」

「ん? もしかしてあなた飲んでるの?」

「まあ、ビールを……」

「そうですか! 私はワインを飲んでいてね」

「ワイン! いいですねえ、赤です? 白です?」

 サケノハナシデモリアガルナ。

 文句を言いたいのはやまやまなんですが、何せ、声を出すのもしんどいです。頭を上げることもできません。はよ終わらせろよ、ワインを注射するわけじゃないんだろが。

「まあ、じゃあ、しょうがない。打ちますよ。がんばって家まで起きててねー」

 グサッ。

 うそだー。

「あ、先生、お会計を」

「そうだった。ええとね」

 あああ、ちょっと、眠気が来てるんですけど! ベッドに放置しないで!

 頭の上から雲で押さえつけてくるような眠気に抗おうと、私はめまいの回転をあえて感じようとしました。このグルグル感! 私は今、起きている!

 そこから医院の外に出るまでは、まるで宇宙遊泳のようでした。

 手も足も、思ったように動かない。夢の中で走っているみたいです。でも、早く進まないと、眠ってしまう。リノリウムの床に倒れて見る夢なんて、SFホラーの世界に違いない。絶対に嫌だ。私は怖いものが嫌いなんだ。初めてミステリーを書いたときに、密室トリックのネタを自分の部屋の間取りで作ったら1週間血まみれの男の夢を見続けたくらい嫌いなんだ。脱出だ!

 すっかり宇宙酔いの様相で医院を出ると、行きに乗ったタクシーが止まっていました。どうやら待っていてくださったようです。頭から座席に倒れ込むと、運転手さんが扉を閉めてくれました。ああ、よかった私は脱出ポッドに乗り込めたよ。バイバイ、宇宙。私は今から帰還する。だれか拾ってくれ。


 家に帰ると、母が布団を敷いてくれていました。

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