第5話 あるがままを大事に




「なかなか良かったな……」


 手を洗いながら、トイレに誰もいないのをいいことにさっきまで観ていた映画を思い返し、俺は独り言ちた。


 今日はバイトは休み。なぜなら、今日は月曜日。つまり、【Glaceグラース】の定休日なのである。


 せっかくの休み──とはいえ、やることがなかった。以前であればゲームに明け暮れていたが、今は手元にないしアパートにも特にこれといった娯楽がない。暇を持て余した俺は、気分転換の意味も含めて久々に出歩くことにしたのだ。


 そうして俺は昼前から主要駅周辺くんだりまで繰り出してきていた。炎天下を避けるべく、適当なショッピングビルに入り込んで涼みながら何件か冷やかしていた。


 昼飯を挟みつつそんなことを繰り返していた時、たまたま通りかかったシネマで面白そうなものがやっていたため、特に買い物もしていなかったのもあって観てきたのだ。


 前情報一切なしで挑んだが入って正解だったなと余韻にやや浸りつつ、映画館を出て往来に紛れ込む。十七時をまわった頃合いだが、この辺、というか、駅周辺は昼間と変わらず混雑している。駅の利用者だけでなく、周辺に大きくて数多くの店が集中しているためだ。田舎でも大きな駅前であれば栄えているが、そんなものとは比べ物にならない。さすが都会だ。


 行き交う人々の中には、これからの時間が本番という者もきっと多いことだろう。だが、俺は十分遊んだし、いい気分転換にもなったからもうここを離脱するつもりだ。


 夕飯何にすっかなーなどとぼんやり考えながら歩いていた時、アニメショップが視界に入った。大型のチェーン店でアニメグッズの取り扱いが豊富な店である。


 なんだか懐かしい気持ちになった。高校時代によくつるんでいた連中、アニメ好きの恭介きょうすけ、大食らいの哲郎てつろう、野球部の順平じゅんぺい、そして俺の四人で学校帰りに地元で何度か寄った思い出がよみがえる。


 主に恭介が寄りたがったので、他三人はそれに付き合った感じだが、一度みんなでゲームの予約をしたことがある。予約限定特典につられて、だ。全員ゲームが好きという共通点もあり、そうやって買ったゲームでしょっちゅう遊んでいた。


 そんなわけで、わりと馴染みのある店ではあった。ひとりで入ったことはほとんどないが、特段抵抗はない。せっかくだしここをちょろっと見てから帰るとするかーと予定を変更する。気ままに予定変更できるのが、ひとり行動の利点である。


 アニメショップにふらりと足を踏み入れると、まぁまぁの客入りだった。予想通りというべきか、男女問わず若い客が多い。


 周りを見渡せば様々な作品のグッズで溢れかえっている。グッズだけでなく、漫画や雑誌といった書籍までびっしりと並んでいた。


 適当に歩きながら流し見する。俺はほとんどアニメを見ない。なんなら、漫画やラノベの類もさほど読んできていない。せいぜい勧められた作品をいくつか見ていた程度。どれも普通に面白いとは思ったが、グッズまで集める気は起きなかった。


 だから、周りにあるグッズの作品についての知識がまるでない。ゲームタイトルなら多少はわかるのだが。強いて言うなら女性向けや男性向けがぼんやり察せる程度か。たまに、どの層に向けたものなのかイマイチ読み取れないものまであるが、それがまたおもしろい。


 まぁ知らないなりに、こうやって眺める分には存外楽しいものだ。少し新鮮な気持ちで色んな棚を見回っていると、ふと見知ったものが目に入った。俺が高校時代に遊んだゲームタイトルのグッズが並んでいたのだ。


 なんでこれがこんなところに……と驚いたが、はっと思い出した。あー、そういやアニメ化するとかって話出てたな。もう放送してるのか。


 これは少し気になるし見てみるか、などと考えていた時、コロンと足元に何かが転がってきた。


「……なんだ?」


 キャラクターのぬいぐるみのようだった。大きさは手のひらほどで、おそらくキーホルダーだろう。こういうのを、確かキャラぬいと呼ぶのだったか。何の作品かまでは見当もつかないが、男性キャラクターだと思われる。かわいらしくデフォルメされいるので、あまり自信が持てないが。


 アニメショップなのだからこういうグッズも周りにたくさんあるが、これが商品ではなく、誰かの落とし物だということがなんとなくわかった。


 辺りを見回すと、ちょうど近くに背の高い女性がいた。買い物中なのだろう。すでに手にしている商品は雑誌だろうか。その表紙には数人アニメキャラクターが描かれている。そのキャラクターと、足元のキャラぬいにシンパシーを感じた。


 たぶんだが、この女性のものではないだろうか。そう思い、俺は足元のキャラぬいを拾い上げて女性に話しかけた。


「あの、すみません、これ落としましたか?」

「え? あ、あれ? 嘘!」


 女性が慌てて肩にかけていた鞄をまさぐり、目的のものがなかったのかガバッと俺のほうを見た。


「あ、そうです! すみません!」


 よかった、あっていた。俺も確信があるわけじゃなかったからな。だが、そうだと思えたのはアニメ好きな友人のおかげだろう。今回ばかりは感謝してやらんこともないぞ、恭介。


「助かりました――って」


 俺が内心で地元の友人に感謝しながら落とし物を渡した瞬間、女性が驚いたような声をあげた。


「キミ、雑貨店の……?」

「へ?」


 今度は俺がびっくりする番だった。よく見ること数秒、俺はこの女性とどこかで会ったことがある。


「あ」


 思い出した。ラフな格好をしているため、全然気がつかなかったが、この女性、数日前に来たOLさんだ。



  ▼  ▼



「好きなの頼んでいいよ、ここはあたしの奢りだから」

「や、でも、やっぱなんか悪いなって……」

「遠慮しなくていいってば。三ヶ嶋みかしまくんが声かけてくれなかったら、あたしは気づかず帰ってたもん」


 そうなってたら、大変なことになっていたのだと、女性――樋口ひぐち江莉子えりこさんが語る。そこまで言われた俺は根負けし、メニューに視線を落とした。


 俺は樋口さんに連れられ、飲食店に来ている。樋口さんがキャラぬいを拾ったお礼がぜひしたいと言いだしたのだ。


 俺はびっくりし、そこまでしてもらう必要はないと一度断ったのだが、樋口さんにどうしてもと懇願され、結局断り切れずにその申し出を受けたというのが今までの流れだ。


 ここに来るまでの道中で、お互い自己紹介を済ませていた。あとは、お互いの年齢や職業について軽く教え合った。


 樋口さんはきさくで、【Glace】で会った時に感じたとおりさっぱりした性格の人だった。海涼さんとはまた違った方向で話しやすい人だと感じる。


「やー、でもなんか恥ずかしいとこ見られちゃったな」


 料理の注文を終え、料理が運ばれてくるのを待つのみとなった時、樋口さんがそう切り出した。


「いい歳した大人があんなところにいるなんて、引いたでしょ?」


 そう言って、頭を掻きながらちらと俺の様子をうかがってくる。俺はぶんぶんと首を横に振った。


「いやいや、そんなことないですって。別に全然変じゃないし」


 俺が本心からそう言うと、それが伝わったのか樋口さんが安堵の息をつく。


 今時、そういう大人は珍しくない。日本のアニメ文化は進化を遂げる一方で、今や老若男女問わず好きで追いかけているオタクは多いのだ。というのを、友人のオタクが力説していた。


 俺もそう思うし、別にそれが異常なことだとは思っていない。俺はアニメには明るくないが、だからと言って別に否定する気もさらさらない。その枠に当てはめると俺はゲームオタクと言えるだから、むしろそっち側の人間なのだ。まぁ、もう過去形だが。


 どっち側とかはともかく、樋口さんもそのオタクなのだろう。バリキャリOLが実はオタクでしたなんて、たしかに驚きはしたもののそれだけだ。人の趣味にとやかく言うほどの権利は俺にはない。というか、別に何もおかしくないし良いだろう。


「三ヶ嶋くんがあそこにいたってことは、もしかしてキミもアニメ好きな感じ?」

「あ、いえ、すんません。俺はあんまりアニメ見なくって」


 あそこにいたのはたまたま通りかかって興味本位で入ったからだと説明すると、樋口さんはそっかと心なしか残念そうに肩を落とした。


 しまった、これは口を滑らせたか? アニメ好きでもないのにアニメショップに入るなんて、冷やかしも大概にしろよ、とでも思われてしまっただろうか。


「そっかー……。あたしけっこうアニメ見るから、何か語れるかなーって思ったんだけど、残念」


 今度は俺が戦々恐々としていると、樋口さんがぽろっとそうこぼした。どうやら語り合いたかっただけのようだ。


 ちょっと申し訳ないな。相手が俺じゃなくて恭介だったら、さぞ話が合って盛り上がったことだろう……いや、やっぱナシ。あいつは女子の前だと異様にキョドる。俺たち相手なら普通というかけっこう饒舌なのに、女子を相手にするとなぜか一転する。急速にへどもどしだし、しまいには壊れたラジオみたいになって、いっそ見ていておもしろいほどだ。


「ゲームならまだ話せるかもしれなかったんですけど……」

「ゲームかぁ。あたしもたまにやったりするけど、三ヶ嶋くんはどんなゲームが好きなの?」

「えっと……」


 俺がやったことのある比較的大きめなタイトルをいくつか上げていくと、そのうちのひとつに樋口さんが反応した。


「あ、それならやったことある! 面白かったからよく覚えてるよ」

「え、マジすか!?」


 まさかこれをやったことがあるとは思わず、テンションが上がってしまった。樋口さんが反応したタイトルは横スクリーン型のアクションゲームで操作性もさほど難しくないため、比較的初心者向けといえる。とはいえ、あまり女性がやるイメージがなかったので意外だった。


 それから俺たちは、料理が運ばれて来るまでそのゲームのことを語らった。けっこう盛り上がり、俺もついつい熱が入ってしまったのだ。普段あまりゲームをやらない人間からの視点は新鮮で面白かった。


 話題が一段落したところで、樋口さんがふいにふふっと笑った。


「三ヶ嶋くん、すっごく生き生きと話すね」

「え、あ、す、すんません、つい……」


 ゲームの話をするのが久しぶりすぎてつい話しすぎてしまった。気をつけていたのに、さすがに引かれたか……。


 我に返った俺が慌てて詫びると、樋口さんはううんと首を振った。


「わかるわ~、あたしも好きなもののことになると、自然とテンション上がっちゃうんだよね」

「や、でも、あんまり興味ないのに熱く語り出すのはよくないかなって」

「んー……まぁ、そこは人に寄るかもだけど、あたしは他人の好きなことを話してる姿好きだけどなぁ。たとえ自分が興味なくても、面白いって思うし」

「そう、なんですか……」


 返ってきた言葉が意外で少し面食らってしまう。たとえ自分が興味なくても面白い、か。たしかに、俺も嫌いではない。人から自分の興味のある話を聞くのは新鮮な気持ちになる時もあるし、たまに自分も興味を惹かれてやってみたくなる時だってある。内容にも寄るが、基本的に邪険に扱うことはない。


「やっぱり、こういうこと話すのって楽しいよね」


 料理に口をつけながら言った樋口さんの言葉に、俺は激しく同意した。本当にそうだ。久々にこんなにゲームのことを話せた気がする。こういう話ができるのは、地元の連中ぐらいしかいなかったから。


「……三ヶ嶋くんみたいな人だったらよかったのにな」

「え?」


 それまで楽しそうだった樋口さんの表情がふいに曇る。首を傾げる俺の目を真っ直ぐ見て、樋口さんがおもむろに口を開いた。


「――あたしね、三年ぐらい前に付き合ってた人がいたんだけど、フラれちゃったんだよね」


 ガツンと頭を殴られたようだった。それは俺にとって非常にタイムリーかつ傷をえぐられるようなセリフだったからだ。


 動揺している俺を見て、樋口さんは申し訳なさそうに眉根を下げた。


「ごめんね、急にこんな話して。でも、ちょっと聞いてもらえる? 食べながらで全然いいからさ」


 俺の動揺を、急に暗い話を始めたからだと思ったらしい。そうではないのだが、俺は必死に平静を保ちながら黙って頷いた。ありがとうと言って、樋口さんは話を続ける。


 相手は会社の同僚だった。職場で話しているうちに気が合うようになり、仲が発展したのだという。それから二年ほど交際が続き、樋口さんは漠然とこのままこの人と結婚するんだろうなと思うようになった。その矢先に、事態が変わったのだと言った。


「フラれた原因、なんだかわかる?」


 軽い調子でとんでもないことを聞かれ、俺はぎょっとしながら首を振った。見当もつかなかったのもあるが、余計なことを言ってしまうのを避けたというのが大きい。こんな雰囲気でめったなことは言えないだろう。


 樋口さんはどこか悲しそうに笑いながら答えた。


「……オタバレ、しちゃったんだ」


 樋口さんは、自身がグッズを集めるほどのアニメ好きという趣味があるということを、ずっと彼氏に隠していたのだそうだ。それがふとした拍子にバレ、受け入れてもらえずに別れることになってしまったのだという。


「そんなことが……」

「ひどい話だよね」


 樋口さんも何度か話そうとはしたらしい。しかし、どうにも言い出せず、結果二年もの間隠す羽目になったらしい。


「今思うと、だから自分の趣味を言い出せなかったのかもなって」


 バレたら幻滅されると、本能的に感じたのだろう。だから、隠すことにした。自分の趣味を隠してまでも、好きで一緒にいたいと思えたから。そう、樋口さんは語る。


 何年も付き合っていたのに、人の趣味を知った途端幻滅するような人間なんて別れて正解だとは思う。けれど、樋口さんの表情には悲壮感が漂っており、それだけ大事な人だったということがひしひしと伝わってくるので安易に口にできない。


「あの、その元カレさんは今って……」


 会社の同僚だと言っていた。なら、気まずいのでは……だが、そんな俺の懸念は杞憂だったようだ。樋口さんは苦笑いしながら答えてくれた。


「別れてから少しもしないうちに異動になってね。いや~まさかのタイミングでびっくり」


 おかげで気まずいまま働かずに済んだ。あのままだったら、自分のほうが会社を辞めていたかもしれない、と樋口さんは冗談めかして言った。


「それから彼氏は作ってないんだー。なんか、もういいやってなっちゃって。しばらくは自分の趣味を全力で楽しもうってなってね」


 付き合っている間は多少抑えていたらしいのだが、その我慢が爆発したかのようにそれはもう夢中で趣味に没頭しているのだそうだ。


「そしたら、いつの間にか推しの概念グッズとか買っちゃうようになっちゃってさぁ」

「が、概念グッズ、ですか?」


 ふいに俺の知らない言葉が出てきて戸惑う俺に、樋口さんはそうと頷いた。


「公式グッズじゃないんだけど、キャラクターの見た目や持ち物に似たデザインのものを見ると、ついつい買っちゃうんだよね」

「な、なるほど……?」


 ふむ、察するにそのキャラクターや作品とは直接関係ないが、シナジーを感じる一般の商品のことを指すようだ。黄色と赤の二色を見て某黄色いクマを連想するようなものなのかもしれない。


 そこまで考えた時、俺はふいに閃いた。


「あ、もしかして、こないだ買ってた鏡って……」


 すると、樋口さんはやや照れたような表情を浮かべて頷いた。


「そうなの。このデザインがめっちゃ推しっぽくてさ~、一目惚れしちゃったんだよね」


 言いながら樋口さんがバッグに手をやって何かを取り出した。それは、先日【Glace】で購入された和風な手鏡そのものだった。それからもうひとつ手にしていたのは、アニメショップで落としたキャラぬいキーホルダー。並んでいるところを見ると、確かにどことなくカラーリングが似ていた。


 俺はその手鏡をじっと見た。樋口さんはあのデザインが気に入ったから買ったようだが、これには精霊が入り込んでいる。


 ――精霊は、迷いを抱えている人が買う物に宿るの


 海涼みすずさんの言葉が脳裏をよぎる。樋口さんの迷いはどうなったのだろうか。もう解決したのか、まだなのか。そもそも迷いなどあるのだろうか。


 ひとりぐるぐると考えている俺の向かいで、並んだ手鏡とキャラぬいに視線を落としていた樋口さんの表情がふいに変わった。


「……ねぇ、三ヶ嶋くん」

「はい?」

「三ヶ嶋くんは、コスプレってどう思う?」

「……はい?」


 コスプレって、あのキャラの恰好を真似てなりきるというあれか……?

 

「どう、とは……」

「あ、ごめんね、急に。意味わかんないよね」


 俺が質問の意図を読めずに答えあぐねていると、樋口さんはあははと困ったように笑った。


「あたしね、コスプレ始めようか迷ってんだよね」


 迷う、という単語を聞いてドキリとした。


 ――精霊は、迷いを抱えている人が買う物に宿るの


 再び海涼さんの言葉が脳裏で木霊する。迷いって、まさかこれのことか? いや、でも、まさかな……。


「俺はいいと思いますけど……なんか迷う理由でもあるんですか?」


 自分がやりたいなら、やったほうがいいと思う。コスプレについての知識はまったくないが、少なくとも誰かに迷惑をかけるようなものではないだろう。


 衣装の準備が大変だとか、似合う似合わないとかで迷っているのだろうかなどと思いつつ俺が何の気なしに聞くと、樋口さんはうーんと困ったように笑った。


「親がね、そろそろ結婚も考えろってうるさくって」

「あ……」


 樋口さんは俺の見立てどおり三十歳間近で、世間的には結婚適齢期である。それについて、電話口や実家に帰るたびに口うるさく言われるらしい。やんなっちゃうよね、と樋口さんがうんざりしたようにため息を吐いた。


「あたしだって、それがわからないわけじゃないんだけど……ね」


 結婚したくないわけではない。できることならしたいとは思っているが、また受け入れてもらえなかったらと思うとどうにも気が進まない。


 だからといって、自分の好きなものを捨ててまでするのもなんだか違う気がする。そう樋口さんは言う。


「あたし、どうしたらいいんだろ……。やっぱ、いつまでも現実逃避してないで、オタク辞めて婚活始めたほうがいいのかな~なんて」


 樋口さんがぽつりとこぼす。そこには、諦観の念が滲んでいるように感じられた。


「…………」


 今の話で俺はようやくピンと来た。樋口さんの〝迷い〟の根源はコスプレをするかしないかではなく、自分の趣味を捨てるか捨てないか、だ。


 今の樋口さんの話、どうにも他人事とは思えなかった。なんなら、俺にも思い当たる節がいくつもある。


 まずは、オタクを隠していたということ。俺の場合はゲームだが、ゲームが好きであるということを大学で出会った人たちや、元カノにすら話したことは一度もなかった。


 俺も隠していたのだ。俺には趣味と言えるものや誇れるものはゲームしかなかった。しかし、男ならともかく女の子相手にゲームの話なんてしても盛り上がらないだろう。大学デビューに向けて俺が読んだ雑誌の中に、異性から引かれる話題ランキングみたいなページがあり、その上位にゲームがランクインしていた。


 樋口さんとは盛り上がりはしたが、元カノはゲームとは程遠いような子だった。だから、つまらない男だと思われることを恐れて、俺も元カノに趣味がゲームであるということを隠していたのだ。


 そして、結婚を急かされているという話。無論、俺はまだ十八歳だし、そんなことを言われたことはない。しかし、けしかけられているという点は少し似ていた。俺の場合は、親ではなく妹にだが。


 俺には三つ歳の離れた妹がいる。今年高校に入ったばかりだ。昔から生意気でこましゃくれてるガキで、俺のことを兄だとも思っていないようなやつだった。


 その妹に、ゲームばっかしてないで彼女ぐらい作りなよ、と言われたのだ。俺が高三だった時に。


 余計なお世話だ、と普段の俺なら相手にもしなかっただろう。しかし、その時は状況が違った。


 当時、俺には大好きなゲーム実況者がいた。登録者数はさほど多くはなくお世辞にも有名とは言い難いが、ゲームがものすごく上手く、攻略動画もたくさん上げている実況者だった。俺の好きなタイトルもやったりしていて、よく動画や配信を見ていた。一流ゲームプレイヤーとして尊敬していたのだ。


 ある時、その実況者に恋人ができたらしく、ゲーム実況の合間に彼女さんの話が出てくるようになった。元々実況者のためトーク力が高かったということもあり、恋人がいかにいいかという惚気話を聞くうちに、俺は羨ましく思い始めたのだ。


 俺はそれまで恋愛というものをしてこなかった。仲の良い男連中とゲームしたりバカ騒ぎするほうが楽しく、ずっとそっちを優先してきたからだ。


 とはいえ、まったく興味がなかったわけではない。高校生ぐらいにもなると、やれ何組の誰それが何組の誰それと付き合ってるだの、誰それが好きな人は誰だの、色恋沙汰の噂話は飛び込んでくるものだ。そんな話が上がるたびに、興味が薄そうな振りをしながら、内心彼女かーと考えないこともなかった。


 しかし、結局俺は恋愛よりも男友達と遊ぶことを優先した。どれも他人事だったためピンと来ていなかったのだが、その実況者の話を聞いているうちに俺の中の恋愛という概念が色づきだした。


 そんな俺の心が揺れ始めた時に言われたのが、件の妹の発言である。


 俺と妹はお互いに受験生だったためピリピリしていた。だから、いつもの言い合いがヒートアップしてしまい、売り言葉に買い言葉の末、『俺は大学に入ったら彼女を作ってエンジョイしてやる』と声高らかに宣言してしてしまったのだ。


 そんなこんなでいろんなものが積み重なった結果、俺は大学デビューをするに至った。実際、大学デビューは成功し、陽キャの軍団に混じってサークルにも入り、念願の恋人もできた。


 このまま大学生活を謳歌してやるんだと思っていた。しかし、それはすべて幻想だった。


 今思えば、俺はなんて影響を受けやすいんだろうと己を恥じいるばかりだ。俺は今何をやっているんだろうか、と彷徨さまよう状態に陥っているのだから滑稽極まりない。後戻りもできず現状維持に縋りついて、本当に情けないと思う。


 でも、だからこそこう思う。自分の好きなものは、そう簡単に捨てるべきじゃないと。


 樋口さんと少しでもゲームの話ができて、正直すごく楽しかった。やっぱり、俺はゲームが大好きなのだと再認識し、捨てたつもりでも捨てきれないものなのだと思い知らされた。


 自分の好きなものを抑え込んだところで待っているのは上手くいかない未来。それなら、自分の趣味を、やりたいことをやったほうがいいと思う。


 しかし、果たしてそれを俺が言っていいものなのか。結婚というのは、人生において重要なものだということはさすがの俺でもわかる。この選択は、多少なりとも今後の人生を左右することになるに違いない。だから、樋口さんもこれほど悩んでいるのだろう。


 それなのに、結婚なんて無理にせずとも自分の好きなことをやればいい、あなたはそのままでいいのだと、そんな無責任なことがおいそれと言えるはずもない。下手したら失礼にもあたる。


 初めはそんなことかと思ってしまったが、とんでもない。人生に関わることとなると、これはまごうことなき深刻な迷いである。


 どう言うのが正解なのだろう。樋口さんよりもずっと年下で社会にも出ていないようなガキに、一体何が言えるというのか。


 そうかける言葉に悩んでいた時、ふいに樋口さんが痛っと小さく声を上げた。


「ど、どうしたんですか?」

「ごめん、目に何か入っちゃったみたいで……」


 まつ毛かな、などと言いながら樋口さんが手鏡に視線を落とした――その瞬間、その手鏡がぽうっと光り出した。


「……!」


 俺は声を上げかけてすんでのところで堪えた。あの光は間違いない。精霊の輝きだ。


 その光は少しもしないうちに落ち着いた。なんで急に光り出したんだと事態についていけず混乱していると、なんと彼女も目を見開いて驚いているではないか。


「あの、樋口さん……?」


 俺が恐る恐る声をかけると、樋口さんははっと我に返ったように目を瞬かせた。


「あ、えっと……信じられないかもだけど、今、鏡にあり得ないものが一瞬映った気がして……」

「あり得ないもの?」


 手鏡が光ったことに驚いたんじゃないのか? と思いながらも慎重に尋ねると、樋口さんは戸惑いながらも頷いた。


「映ってたのはあたしなんだけど、でも、なんだか恰好が違って……」


 好きなキャラクターの恰好やメイクをした自分だった。そして、その自分がとても輝いて見えた。


「って、ごめん。また変なこと言っちゃった。そんなわけ、ないのに……」

「あ、いえ……」


 それを聞いて俺は考える。手鏡が光り出したと同時に、樋口さんが鏡を通してコスプレした自分――自身の理想の姿を垣間見た。


 これが偶然とは思えない。となれば、精霊の仕業だと考えるのが妥当だろう。これが、海涼さんが言っていた精霊の後押しというやつなのだろうか。


 樋口さんは手鏡を食い入るように見つめた状態で微動だにしない。どうしたのだろうか、と思って俺が声をかけようとした時、樋口さんが口火を切った。


「――決めた」

「樋口さん?」

「あたし、やっぱりコスプレ始めてみる」

「ええ?」


 驚いている俺の目の前で、樋口さんがやる気をみなぎらせている。


「もう幻覚だって構わない。今見たコスプレ姿のあたし、すっごくキラキラしてた。メイクも衣装も似合ってたし!」


 樋口さんは興奮したような口調で続けた。


「それにさ、よくよく考えたら、コスプレ始めてイベントとか行くようになれば、そこでいい人にも出会えるかもしれないじゃない?」


 これなら一石二鳥だと、樋口さんは楽しそうに笑った。その表情に先ほどまでの陰はなく、何か吹っ切れたような明るさを宿している。


「ま、さすがにそれはあんまり現実的じゃないかもだけど。でもね、もうこれ以上、自分の好きなことを抑えたくない。あるがままを大事にしたいんだ、あたし」

「……っ」


 力強い言葉に、俺は息を呑む。そして、その眩しい姿を見て理解した。


 そうだ。自分の好きなものを隠したり抑えたりすることは、かなりしんどい。なら、諦めなくてもいい道を自分で探せばいい。手放すだけが唯一の正解というわけではけっしてないのだから。


 すると、樋口さんが握ったままの手鏡が再びぼんやりと光り出し、すうっと光が抜け出た。そして次の瞬間、ぱちっと泡が弾けるようにして消失した。


 彼女の迷いがなくなったから、だろうか。だとしたら、俺が言えることはこのぐらいだ。


「……いいと思います。樋口さんなら、きっと大丈夫ですよ」


 紛れもない本心を口に出すと、樋口さんははにかみながらもうんと頷いた。



  ▼  ▼



 翌日、【Glace】に出勤した俺は、樋口さんとばったり遭遇したところからの一連のやり取りを海涼さんに語って聞かせた。


「――そう。そんな場面に立ち会えるなんて、栄路くんはラッキーね」


 半ば興奮気味に経緯を話す俺に対して、海涼さんは微笑を浮かべ落ち着いた様子だった。


「手鏡が光ったんですけど、その時に樋口さんはコスプレした自分の姿を見たって言ってました」

「それが今回の精霊の祝福ということかしら」

「精霊の祝福?」

「私が勝手にそう呼んでるだけなんだけどね」


 名前から推察するに、以前海涼さんが言っていた〝精霊がその人の望むほうへ進むことを後押しするもの〟なのだろう。


「あと、手鏡から精霊が飛び出して消えちゃったみたいなんですけど、それって……」

「その女性の迷いがきっとなくなったからね」


 〝精霊〟は宿った雑貨の持ち主の迷いが晴れたと同時に消失するの、と海涼さんは続けた。やはり、俺の予想は間違っていなかったようだ。


「私は、精霊が迷いをどこかに連れて行ってくれたんじゃないかなって思ってるわ」


 たしかに、そのほうがしっくりくる。精霊が迷い主の迷いを連れて行ってくれるから、前を向くことができる。それこそまさに精霊の祝福だろう。


 持ち主の迷い、精霊の後押し。それらのことが、一連のできごとでなんとなくわかった気がする。


 精霊の働きかけは樋口さんの迷いに対するものだったが、それを通してなんだか俺も色々と気付かされた。


 自分の好きなものを、無理して抑え込む必要はないんだってことを。


「ともあれ、またひとつ迷いが消えたのならよかった」


 海涼さんがそう言って、カウンター裏の時計に目を向けた。


「そろそろ時間ね。オープンしましょうか」

「はい!」


 俺は元気よく返事し、営業看板を変えに外へ出た。昼間近で、天上付近にいただく太陽が燦々と日光を落とし込んでいる。


 どうか、あの人の未来がよき方向に向かいますように。そう願いながら、俺は『CLOSE』になっていた看板をひっくり返した。


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