第6話 濡れ鼠、ひとり




 ふぅとひと息き、ふと店の中から外を見やると、窓ガラスに水滴がついていた。今日はあいにくの雨模様。朝から雨がしとしとと降り続いている。よく降るもんだと思いながら、俺は店内の掃除を続けた。


 八月も半ばとなり、俺が【Glaceグラース】でバイトを始めてから二週間が経とうとしていた。


 精霊たちは相変わらず店内を気ままに浮遊している。二週間もすればいい加減この光景にもすっかり慣れ、今では全然気にならなくなっていた。慣れとは恐ろしいものである。


 と、店内にボーン、ボーン、と重く低い音が響く。カウンター裏に設置されたアンティーク調の時計が奏でる、十四時を知らせる合図である。今日は悪天候ということもあってか客入りが悪く、開店してからまだ数人しか来ていない。


「かわいいものいっぱいあるね~」

「ね、手作りっぽいのまであるよ」


 その数人の内の一組が今店内にいる状態だ。高校生ぐらいの女の子が二人、店内を見回っていた。


「あ、ねぇ、ノート置いてあるとこ、ここみたいだよ」

「ほんとだ。うーん、どっちにしようか迷っちゃうな~」


 そんなことをきゃっきゃと言い合いながら女子二人が買い物を楽しんでいる。迷っちゃう、ねぇ。ちらと視線を上げれば、浮遊している精霊たちが目に入る。


 樋口さんの一件以来、精霊が反応するような客は来ておらず、【Glace】は平和なものだった。とはいえ、精霊が反応するほどの客の迷いに触れた俺は、それに対して退屈だと不満を抱くことはなくなった。


 どうやら、あれほどの悩みや迷いがないと精霊は反応しないようだ。であれば、そんな迷いはなるべく持っていないほうがいい。そう思うようになったのだ。だって、そうだろう?


「ありがとうございました~」


 女子二人が買い物を済ませて店を出て行く。客がいなくなったため、店内には外からわずかに漏れてくる雨音だけが聞こえる状態となった。


 寂しさを感じた時、ふと左肩にわずかな重みを感じた。


「っと、お前か」


 首を巡らすと、肩に乗ってこちらの顔を覗き込むようにしていたメルがフニャッと鳴いた。


 この二週間のうちで変化があった。メルが俺の肩に乗ってくるようになったのだ。当然だが、男の俺は海涼さんよりも肩幅が広くがっしりしているため、乗りやすいのだろう。どうやらこの猫、本当に高いところが好きなようだ。降りられないくせにな、ったく。


 右手で顎のあたりを撫でてやると、メルが気持ちよさそうに目を細める。そんな愛嬌のある姿を見たら、俺も自然と頬が緩む。ペットを飼った経験がなくあまり動物に馴染みはなかったが、懐いてもらえるのは存外嬉しいものだ。


「メルと栄路えいじくんもすっかり仲良しさんね」


 カウンターのほうからこちらを見ていた海涼みすずさんがくすくすと笑っている。


「メルは弟ができた感じがして嬉しいみたい」

「ええ? 俺が弟なんですか?」


 不満げに言う俺の肩口で、メルがどこか得意げに胸を張る。自分こそ兄ださぁ敬えと言わんばかりである。この甘えたが兄とか正直納得がいかないが、まぁここは譲ってやるとするか。少なくとも俺より賢いからな、この猫……。


 そんな俺たちを見ていた海涼さんが、そういえばと切り出す。


「そろそろお盆だけど、栄路くんはご実家に帰るの?」

「あー、まぁ……」


 お盆は基本的に実家に帰る人のほうが多いだろう。俺のように地方から都会に来ている人は特に、帰省を選択する人間ばかりのはずだ。


 正直、俺は帰省にはあまり乗り気ではなかった。ただし、帰らないことを選択すると、逆にやることがなくなってしまう。【Glace】はお盆期間中休業することになっているので、バイトで時間を潰すこともできない。


 そうすると、アパートでひたすらゴロゴロすることになるのだが、それだとつまらない。かと言って遊びに外に出たとて、連日そんなことをしていられるほどの金銭的余裕もなく。


 となれば、やはり帰郷が一番現実的だろう。親からもお盆ぐらい顔を見せろと言われているし、二日ばかり滞在する流れになりそうだ。まぁ、ご飯を用意してもらえることを考えると、帰ったほうが色々楽であることに違いはない。


 これ以上追及されると少し気まずいため、俺は海涼さんに話を振る。


「海涼さんのほうこそ、お盆に何か予定あるんですか?」

「私は、おばあちゃんのお墓参りをね」


 思わず言い澱むが、海涼さんは特に哀愁を漂わすこともなく、むしろ楽しそうに語る。


「栄路くんのこと報告しようと思ってね。今こういう子が【Glace】でバイトしてるのよーって」

「あ、えっと、よろしくお伝えください……?」


 なんと言えばよいかわからず、なんとか捻りだした俺の言葉に、海涼さんはうんと頷いた。


 俺のいないところで俺のことを紹介されるのか。海涼さんも楽しみにしているみたいだし。……なんか、落ち着かないな。


 なんとなく照れくさくてそわそわしていると、ふいに左頬をむにっと押された。メルが肉球を押し付けてきたのだ。


「ちょ、おま、あにすんだ」


 文句を言ってもメルはやめようとせず、柔らかい肉球でむにむにと頬を押してくる。こんにゃろうと俺が首根っこを掴もうとした矢先、メルが耳をぴくっと動かしたかと思うと、俺の肩からぴょんと飛び降りて駆けて行った。


 気まぐれな奴だと左頬をさすりながら思っていると、フニャッという鳴き声が聞こえた。首を巡らせると、ドアの前まで行ったメルが二足で立ち上がって扉を爪でカリカリ引っ掻いている。


 まるで開けてくれとでも言わんばかりの行動に、俺は首を傾げる。


「おい、何やってんだ、外は雨だぞ?」

「――栄路くん、開けてあげてもらえる?」

「え?」


 海涼さんがまさかのメルに加勢した。海涼さんがそう言うなら……と渋々メルの元に向かい、扉を開けてやるとカランとドアベルが鳴った。


 外はザァザァと音を立てて雨が降っている。いっそ気持ちいいほどの降りっぷりだ。天気予報では今日一日ずっとこの調子で、明日の明け方頃には晴れるのだという。最近は晴れた暑い日続きだったため、一日ぐらいさっと降ってくれるのはむしろ気持ちがいいと俺は思う。まぁこれは俺が屋内にいるから言えることであって、外出していたらたまったものではなかっただろうが。


 扉が開いた途端、メルがたっと店先に出る。アーチ状の天井があるので、雨がすぐ直撃してくることはない。ただ、ずっと雨が降っているせいで地面はしっとりと濡れている。


「で、お前はなんだって外なんかに……っ」


 右側を向いたままじっとしているメルの視線を追いかけた俺は、ぎょっとして言葉を詰めた。扉の右側。店先に、膝を抱えてうずくまっている人影があったのだ。


「あの、大丈夫ですか!?」


 咄嗟に声をかけると、そのうずくまった影がのっそりと顔を上げる。濡れた髪が貼りつくその顔は幼さを残している。中学生ぐらいの少年だった。


 よく見れば肩のあたりがぐっしょり濡れていた。一体いつからここにいるのだろうか。


「あ、すみません……でも、おれのことは気にしないでください」


 そう言った少年の声はあまり起伏を感じられなかった。なんだか投げやりな感じだった。


「んなこと言ったって……」


 こんな状況でそんなこと言われても、はいわかりましたとはならないだろう。この濡れ具合だと、下手すれば風邪をひいてしまう。


「栄路くん、彼をお店に入れてあげて。タオル持ってくるから」


 はっと後ろを見ると、いつの間にか海涼さんも扉前まで出てきていた。すぐ状況を把握したらしい彼女はそう言って、そそくさと中に戻っていく。


「えっと、ここの店長が雨宿りさせてくれるってさ。ひとまず中に入らねーか?」

「…………」

「あ、具合悪いのか? なら、立つの手伝うけど」

「…………」


 少年はうずくまったまま首だけ横に動かした。別に具合が悪いわけではなさそうだ。


 なぜここまで拒むのかわからないが、これは一筋縄でいきそうもない。俺は頭を掻く。無理やり引っ張っていくのは憚られるが、かといってこのまま放っておくこともできない。


 さて、どうしたもんかと思い悩んでいると、足元にいたメルが少年に近寄って行った。


 メルがフニャッと鳴きながら少年の足に猫パンチを食らわせる。けっこう勢いがあったらしく、少年がびっくりして顔を上げた。


「な、なに……って、え? 猫……?」


 衝撃の正体を見て、少年の表情が微かに変わる。かわいい、という呟きが聞こえた。この子、猫が好きなのか?


 メルをまじまじと見ていた少年がそろりとメルに手を伸ばす。しかし、メルはその手をするりと躱すと、俺の足元まで戻って来た。メルがオッドアイの瞳でじっと俺を見上げてくる。


 ……おそらく、たぶん、メルの意図を俺は察した、と思う。俺はメルをひょいと抱き上げると、少年のほうに向けた。


「店に入れば、こいつと触れ合えるぞ」


 そう言って、俺はにっと若干意地悪く笑ってみせた……はいいものの、本当にこれ効力があるのか? 別にいいとそっぽを向けられてしまえばそれまでな気がする。


 自分の行動に自信を失くしかけた矢先、ぽかんとしていた少年が諦めたように息を吐いてゆっくりと立ち上がった。



  ▼  ▼



「はい、お茶よ。身体が温まると思うわ」

「ありがとう、ございます……」


 店内にある唯一のテーブル席に少年が座っている。肩には海涼さんが持ってきたタオルがかけられている。先ほど頭や顔を拭いたものだ。


 店内はエアコンの温度を若干上げ、空調を利かせている。いくら真夏とはいえ、雨に打たれれば体温は下がる。少年が身体を冷やさないように配慮した結果だ。


 ちなみに、【Glace】の看板は閉店にしてある。今日はこの天気だし、これ以上の客入りは見込めないだろうという海涼さんの判断だった。


 少年の向かいに座った海涼さんが、カップに視線を落としたままじっとしている少年にそっと話しかけた。


「お名前を訊いてもいいかな」

「……木下きのした卓也たくや


 少年――卓也がぼそっと名乗る。それを気にした風もなく、海涼さんはそうと頷いた。


「私は氷高ひだか海涼。こちらはスタッフの三ヶ嶋みかしま栄路くん」


 海涼さんが紹介してくれたのに合わせて軽く顎を引くと、卓也はやや肩身の狭そうな様子で目礼してきた。


「中学生かな? 何年生?」

「二年生、です」

「そっか。ひとまず、ゆっくりお茶でも飲んで落ち着いて?」


 海涼さんの言葉に、卓也は少し迷う素振りを見せたが、やがて恐る恐るカップを持ち上げて口をつけた。こくりと一口飲んだ瞬間彼の表情が変わり、ほうと息を吐いた。


「美味しい……」


 どこかで見たような光景だ。そう、俺が初めてここで茶を飲んだ時とほとんど同じ反応をしている。


「気に入ってくれたみたいでよかった」


 海涼さんがふわりと微笑む。その表情を見て卓也が惚けたような顔をした。


 まぁそうなるのも仕方ない。この整った顔立ちで微笑まれたら、見蕩れないほうがおかしい。……けど、なんか面白くないな。


 俺はひとつ咳払いをして彼の注意をこちらに向けさせる。


「その茶、美味いよな。俺も好きなんだ」

「あ、はい……」


 卓也の肩が少し縮む。なんか牽制したみたいになっちまった。少し大人げなかったか……いや、別にそういうんじゃ全然ないけどな? 海涼さんとはまったくもってそんなあれではないし、うん。


「で、なんだってあんなびしょ濡れで座り込んでたんだ?」


 温かい飲み物を飲んで卓也が少しは落ち着いたタイミングを見計らって、俺が話を切り出す。


 俺は気になって仕方なかった。――だって、卓也は確実に何か迷いを抱えているという確信があったからだ。


 卓也が【Glace】に入った瞬間、精霊たちがざわつき始めたのだ。そして、今もなおぐるぐると旋回するように遊泳している。


 樋口さんのときと同じ現象が起こっている。ということはつまり、この少年も何か深刻な悩みや迷いを抱えているに違いない。


「…………」


 しかし、卓也は黙ったままだ。言いたくないというよりは、話してもいいものか迷っているように見えた。


 それが海涼さんにもわかったのか、なだめるように卓也へ声をかける。


「ここには、あなたと私たちしかいない。話したら案外スッキリするかもしれないわ。もちろん無理にとは言わないけど、私たちでよければ話を聞くから」


 海涼さんの声はどこまでも澄んでいて優しい。その声音に絆されたのか、卓也がようやく口を開いた。


「……お母さんと喧嘩して。それで、家から飛び出して来たんです」


 それきり、卓也はまた口を閉ざしてしまった。おそらくだが、母親と喧嘩したことだけが原因ではないはずだ。それだけで卓也がここまで思いつめるとは思えなかった。


「栄路くん、卓也くんの話を聞いてあげてくれる? 私はちょっと席を外すから」

「あ、はい」


 海涼さんは卓也に微笑みかけると、傘を持って外に出て行った。きっと卓也に気を遣ったのだろう。


 卓也がちらちらと海涼さんを気にしていたのには俺も気づいていた。あの様子だと、海涼さん、というか、女性がそばにいると話しづらかったのだろう。同じ男だからわかる。女性の前でみっともない姿を晒したくないという男のプライドというやつだ。


 とはいえ、俺とて上手く聞いてやれるか正直自信はない。別に聞き上手というわけでもないのだ。ろくなアドバイスをしてやれないかもしれない。でも、海涼さんが俺に任せてくれたんだ。その信用を裏切りたくないし、できる限りのことはやってみよう。


「なぁ、もう少し話聞かせてくれないか?」

「…………」

「他の誰にも言わないからさ。男と男の約束だ」


 俺が重々しく言ってやると、卓也の瞳が揺らいだ。我ながらこんなセリフを言うのは口幅ったかったが、卓也ぐらいの年頃はこういうセリフやシーンに憧れを持つ。確信めいたものがあるのは、俺自身がそうだったからだ。


 すると、卓也はぽつぽつと話し始めた。


 そもそもの事の発端は、友人との間で起こったことだったらしい。卓也と友人たちがハマっているカードゲームで、ついうっかり強力なレアカードを持っていると言ってしまった。友人たちが揃っていいカードを持っているのが悔しくなり、本当は持っていないのに嘘をついてしまったという。


 そうしたら、友人がそのカードと戦ってみたいと言い出し、対戦を持ちかけられた。慌てて嘘だと言おうとしたが、友人たちがあまりに期待するものだから引くに引けない状態となった結果、その勝負を受けることなってしまい、頭を悩ませていたという。


 どうにかして例のレアカードを手に入れる必要が出た。そこで中古で買おうとしたが、それがとんでもない金額で中学生の小遣いではとても買えないレベルだった。だから、卓也は苦肉の策で母親に小遣いを増やしてくれと頼みに行った。


 しかし、母親が何のためかしつこく聞いてきたため、渋々答えたところ激昂されたそうだ。そんなくだらないことに無駄金を使うなだとか、宿題をやったのかなど口うるさく説教してきたらしい。頭ごなしにガミガミ言われたため、自分がついた嘘のせいで溜まりに溜まった鬱憤が爆発し、母親と口論になったのだという。


「それで、おれ、ひどいこと言っちゃって……」


 こんな母親の子どもになんか生まれたくなかった、と。そう言い放ってしまったのだそうだ。


 そんなこと言うつもりではなかったのに、売り言葉に買い言葉でついそんな言葉が口をついて出てしまった。直後に母親の傷ついたような表情を見て、卓也はさすがにしまったと思ったようだが、言葉が出てこなくて八方塞になり、気づけば外が雨なのも無視して家を飛び出していた、というのが事の経緯らしい。


 反抗期特有のやつだろう。人間の成長過程で避けようのないものなのだから、こればかりは仕方がないとしか言えない。かくいう俺だって、中二といえば親に散々反抗していた気がする。今思えば、本当にくだらないことだ。あの時は俺もガキだったと、思い出したくない半分笑い話にできる半分である。


 けれど、それは俺がとうに通り過ぎたものだからであり、絶賛真っ只中の子ども本人からすれば深刻なものなのだ。


「なんか、全部上手くいかなくって。それで、もう頭ぐちゃぐちゃで……どうしたらいいかわかんなくって」


 ぽろりとこぼした卓也の声が若干震えている。顔を俯かせているからよく見えないが、おそらく泣くのをこらえているのだろう。


 全部上手くいかない。それは、今の俺も一緒だ。俺と卓也は似ている。今の卓也がした話、まるで自分の話をされているかのようだった。


 引くに引けない状態で、誰とも顔を合わせられない。そんな状態になったのは他でもない自分のせいなのだから、どうすればいいのかわからない。


 俺も大学生活を謳歌すると友達と家族に大々的に宣言して地元を飛び出した。


 実は、地元の友人三人から夏休みはみんなで遊ぼうと誘われていた。しかし、まだ波に乗っていた当時の俺は、サークルメンバーや恋人との付き合いで忙しいから、そんな時間は取れないとあっさり断ってしまったのだ。


 ただでさえ、みんな進学や就職でバラバラになってしまっているというのに、その機会さえ俺は無下にした。昔からの友より、当時の自分の生活を最優先にしたのだ。


 だから、そんな風に豪語してしまった手前、夏休みの予定がすべてパァになってしまったにも関わらず、それを誰にも打ち明けられずにいる。この期に及んで本当のことを話せていないなんて、情けないったらない。見栄を捨てられずにいる本当に惨めな男だと自分自身が嫌になってくる。


 自分で自分の首を絞めていることはわかっている。でも、怖いんだ。あんな大口叩いておいてその結果がこれかと笑われるのが。それに、大学生活が上手くいかなくなったからやっぱお前らと遊ぶわ、なんてあっさり手の平を返す虫のいい最低なヤツだと思われて嫌われるのが。


 だから、俺は帰省に抵抗があるのだ。帰ればあいつらとばったり出くわす可能性がある。そうなればすぐにバレるだろうから、俺はそれを恐れていた。


 俺も卓也も、ままならない現状にがんじがらめにされている。後ろめたさやプライドなどが絡みついてきて、振りほどけずにその場でもがいているのだ。


「……上手くいかないのは、苦しいよな」


 俺が自嘲気味に笑いながらぽつりとこぼすと、卓也は顔を上げた。


「なぁ、卓也。お母さんの子に生まれたくなかったなんて、そんなこと本当に思ってるわけじゃないんだろ?」


 卓也は顔を俯かせたままこくりと首を振った。そうだろう、でなければこんなに落ち込んでいないはずだ。言ってしまえばただの八つ当たりで、本心ではない。相手の反応が予想だにしないものだったからこそ、さすがにまずかったと気づいたのかもしれない。


「お母さんと、それから友達とも仲直りしたいか?」


 そう聞くと、卓也がこくりと頷く。自分のやったことがまずいことだと自覚して反省できているなら、まだ大丈夫だろう。


「でも、どうすれば……」


 あんなひどいこと言っちゃったし……と卓也が落ち込む。謝っても許してもらえなかったらと思うと怖いのだろう。ちゃんと謝れば案外簡単に許してくれるのではないかと思うのだが、たぶんそれを言っても卓也は信じないような気がした。


 気がふさいでいると、なかなか前向きに考えられないものだ。今では多少マシになったが、少し前までの俺が似たような状態だったから気持ちは痛いほどわかる。


 これは一回気を紛らわせたほうがいいかもしれない。俺がそう思った時、店の扉が開きカランとドアベルが鳴った。海涼さんが帰ってきたのだ。傘は持っていなかったが、おそらく濡れているから外に置いてきたのだろう。


「どう? お話は落ち着いた?」


 俺たちのそばに来た海涼さんが卓也の様子を窺い、それから俺のほうに視線を移した。俺が苦い顔で首を横に振ると、それだけで状況を察したらしい海涼さんは少し逡巡し、やがてひとつ頷いた。


「ずっと話してて疲れたでしょう。卓也くん、休憩ついでによかったらお店の中を見てみない?」

「……お店の中?」


 海涼さんはどうやら俺と同じことを思ったらしい。さすがここの店主だ。たしかに、リフレッシュさせるにはうってつけだろう。


「ここにはいろんな雑貨がいっぱいあってさ。見てるだけでもけっこうおもしろいもんだぜ?」


 俺も言うと、卓也は困惑していたようだがやがてこくんと頷いて席を立った。


 店内を歩きながら、卓也は棚の商品を物珍しそうに見ている。普段、こういったところに来ないのであろう。俺にも覚えがあるが、あまり関わりのなかったもの見るのは新鮮な気持ちになるし、多少は気が紛れるはずだ。


 そうして色々見て回っていた時、ふと卓也が足を止めた。


「あの、これなんですか?」


 卓也が指さした先には、手のひらサイズの瓶がいくつか並んでいるコーナーだった。その瓶には固まりが入っている。まるでその瓶に注がれた液体がそのまま硬化したようなものだった。


「これはアロマキャンドルね」

「あろまきゃんどる……?」


 卓也が首を傾げる。聞いたことがないのだろう。毎回ここの掃除をしている俺は覚えたが、バイトするまでは卓也同様その存在を知らなかった。海涼さん曰く、ろうの中に香り成分を含んだオイルなどを混ぜることで、香りを楽しむアイテムがアロマキャンドルとのことだ。


「火をつけて蝋が溶けるとね、香りがするキャンドルなの。コンフューザーに近いものね。個人で楽しむ人もいるけど、プレゼントととして贈ると喜ばれることが多いかも」


 へぇ、と卓也は物珍しそうにアロマキャンドルをまじまじと見ている。一方、俺はプレゼントという言葉を聞いてふと閃いた。


「じゃあ、これをお母さんにプレゼントしてやるってのはどうだ?」

「え?」

「仲直りのきっかけ作りになりそうだろ」


 それに、俺もこの手の策を使ったことがある。俺の場合は、ただのご機嫌取り目的でとても褒められたものではないが、母は呆れ混じりとはいえ俺を許してくれた。


 今ならわかるが、母も俺の幼稚な思惑にはきっと気づいていただろう。それでも折れてくれた。もしくは諦められただけかもしれないが。


 俺の提案に、卓也はその手があったかと一瞬顔を輝かせたが、すぐに眉を下げた。


「でも、おれ、今お金持ってなくて……」

「俺が出す」

「え?」


 卓也が目を丸くする。聞き間違いか、とでも言いたげな顔をしていたので俺はもう一度言ってやった。


「そのぐらい俺が出してやるよ。だから、買ったものをお母さんに渡して仲直りして来い」


 俺が海涼さんにいいですよね? と目配せすると、海涼さんは優しく目を細めて頷いてくれた。よかった、あとで給料から天引きしてもらうようにちゃんと言おう。


「ええ!? いや、でも、そういうわけには……」


 当の本人は狼狽えながら遠慮の意を示す。まぁそうなるよな、普通。少し考えた俺は、偉そうに腕を組んで卓也を見下ろした。


「おっと、勘違いするなよ。別に奢ってやるとは言ってない。お母さんと仲直りできたら、報告がてらその金を返しに来い」


 な? と俺が笑ってやると、卓也は、う、だの、でも、だの言っていたが、俺に取り下げる意思がないのを感じ取ってかやがて意を決したように頷いた。


「すみません、ありがとうございます」

「よっしゃ。そうと決まれば、どれにするか決めようぜ」


 並んでいるアロマキャンドルはどれも香りが違う。瓶に貼られたラベルには香りの種類が記載されており、フローラルな香り、柑橘系の香り、ウッディな香りとけっこう幅広い。その分、個人の好みにあった香りが見つけられそうだった。


「どれ、て……おれ、こういうのよくわかんないんですけど」


 卓也が俺の顔を窺ってくる。……そんな風に見られても困る。あれだけかっこつけておいてなんだが、俺にも何がいいのかさっぱりわからん。


 俺は先ほどまでの威勢をなくし、情けなくも海涼さんに助けを求める視線を送った。海涼さんは、そうねと顎に人差し指を置いた。


「お母さんが好きな香りとかわかる?」

「わかんないです……」


 卓也がしゅんと肩を落とす。大丈夫だ卓也。俺だって、母親の好きな香りを聞かれても答えられない。なんなら使っている洗剤や柔軟剤の匂いもなんなのかすらよくわかっていないのだ。なんかいい匂いだな、ぐらいにしか思わない。


 これが息子ではなく、娘だったのならば答えられたのだろうかと埒もないことを考えていた時だった。店内を旋回していた精霊の中のひとつがふいにその輪を抜け、俺たちのほうに近づいてきたのだ。


 ここで動くのか。やっぱり、精霊の動きは読めない。


 俺は卓也にバレないように平静を装いつつ、その精霊の動向を見守る。海涼さんも当然気づいているようだったが、さすがと言うべきかまったく顔色が変わらない。精霊の存在には慣れた俺だったが、雑貨に宿る瞬間にはまだまだ慣れそうになかった。


 精霊がアロマキャンドルのそばまで行くと、そのうちのひとつにスゥッと入り込んでいった。キャンドルが一瞬光を帯びるがすぐに消える。


「それじゃあ、これなんてどうかしら」


 海涼さんが吟味する素振りを見せ、自然な動作で先ほどの精霊が宿ったアロマキャンドルを手に取った。


 そのキャンドルには英語でバニラと書かれている。バニラの香りに違いないだろうが……ふむ、バニラか。どういう香りなのか、ぱっと思い出せないな。卓也も俺と同じであまりピンと来ていないようだった。


「ちょっと嗅いでみる?」


 そう言って、海涼さんは瓶の蓋を開けて卓也に差し出した。それを受け取った卓也がおっかなびっくり瓶の口にやや鼻を近づける。


「……?」

「どうした?」


 卓也の動きが止まったので不思議に思い尋ねると、少年は目を瞬かせた。


「なんか、どっかで嗅いだことあるような……?」


 どこだったかな、と卓也が怪訝そうに首を傾げている。だが結局思い出せずに考えるのを諦めたらしい卓也は、手にしているキャンドルに視線を落とした。しばしじっと見つめていたが、やがて顔を上げて海涼さんを見た。


「じゃあ、これにします」

「うん、どうぞ。お母さん、喜んでくれるといいわね」


 海涼さんが微笑みかけると、卓也はこくこくと頷いた。


 さて、俺たちができることはここまで。仲直りにはきっと精霊が力を貸してくれるはずだ。今回はさすがにそれを目の当たりにすることはできないだろうから、どういう風に作用するのかはわからない。それだけが少し残念だが、見世物ではないのだしこればかりは仕方がないだろう。結果がどうなったのかだけ、また卓也に報告してもらうように言うほかない。


 そう思って、俺が口を開くより先に別のところから声が上がった。


「――じゃあ、仲直りしましょうか」


 海涼さんがそう言った直後、カランとドアベルが鳴り響いた。入り口の扉が開き、中に誰かが入ってくる。


 俺は慌てた。【Glace】はすでに閉店している。普段なら営業している時間だから、それに気づかず入ってきてしまったのだろうか。


「すんません、今日はもう閉店で――」

「卓也!」


 俺が言いかけた時、それに被せるように入ってきた人物が声を発した。


「へ? 卓也?」


 思わず横を見やると、卓也は瞠目してその場に固まっていた。そうして、震える唇でこう紡いだ。


「お、お母、さん……」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る