第4話 迷える客人



「……よし、ここはこんなもんか」


 パンパンと手を払ってひと息つく。背筋を伸ばすと、パキッと小気味の良い乾いた音が腰の辺りから聞こえた。


 俺にとってはこの店の棚は低い。必然的に身を屈めて作業することになるため、体勢的にどうしても腰に疲労が溜まる。こればかりは仕方のないことなので、適度に身体を伸ばしつつ作業を行う。


「次はあっちだな」


 少し身体を休めたあと、俺ははたきと台拭きを手にまた別の棚に向かった。






 俺が【Glaceグラース】でバイトを始めて早くも三日が経とうとしていた。つつがなく、俺はバイト生活を送っている。


 そう、つつがなく。バイト生活にのだ。何の問題もないというのは順調に等しく、本来であればいいことだろう、間違いなく。


 しかし、この店の場合は違う。


 精霊のいる【Glaceこの店】の仕事内容や客層など、特にこれと言って変わった点はなく至って普通なのである。【Glace】で送る日々は、俺が思った以上に何の変哲もなかった。


 まず、【Glace】は不定休で営業している。一応月曜日を定休日としてはいるものの、店主の都合で他の日でも休業することもしばしばあるとのことだった。まぁ、個人で営業しているのだから休みの融通はききやすいのだろう。


 営業時間は、平日は大体午前十一時から午後六時頃。休日はもう少し長く開けることもあるとのことだった。これも、店主や店の状況で時間が前後するのだという。けっこう自由なスタイルだ。


 制服などは特になく、服装は自由。ただし、エプロンは一応着用することになったので、私服の上からかけている。客か店員か見分けつくようにするためだろう。無論、客側からのだ。


 エプロンはシンプルな作りで、小学生時代に家庭科の授業で作ったものを彷彿とさせた。デザインもこれまたシンプルで、薄い水色一色の生地に、胸元に【Glace】と金色の刺繍がされている。あとは大きめのポケットが右側についているだけだが、それがまたオシャレだなと思った。


 俺は基本的に週四、五で働くことになっている。給料は時給制で、都内の最低賃金である。給料に関しては好条件とは口が裂けても言えないが、予め聞いていたことだし、それを承知の上で自ら働く希望を出したので文句はない。むしろ、交通費を出してくれるだけでもありがたいと思うべきだ。


 初日は、ひととおりの業務内容と取り扱っている雑貨についての説明がメインだった。【Glace】に置いてある商品は、七割ほどが業者から卸しているもので、残りの三割がハンドメイド作品とのことだった。

 

 ハンドメイド作品に関しては、この辺りで活動している何人かのものづくり作家の方の作品を置いているらしい。特別知名度があるわけではない一般作家の方が趣味で作っているものだというのだ。


 とはいえ、素人目から見てもその作品たちは非常に精巧に作られており、正直普通の売り物と遜色ないように思えた。作家の作品愛がこちらにも伝わってくるほどである。こういう風に手作りのものを店舗に依頼して置いてもらうことを、委託販売というらしい。


 今はそういったものも多いのだと、いつぞやに買ったトレンディ雑誌で目にした。ネットの普及でオンライン通販等で自分が作った作品を売るといったことが手軽にできるようになった。自分が売りたいものを売り、自分が欲しいものが手に入りやすいのは良いことだろう。


 まぁ逆を言えば、売買が手軽になったからこそ問題も起きやすくはなっているのもまた事実。転売などがいい例だ。ネット上でよく話題に上がり、しょっちゅう炎上しているのだと地元のアニメ好きな友人が憤然と言っていたのを思い出す。


 たしかに、子どもが欲しがるようなものを大の大人が儲け目的で買占めているというのは、正直許せないし気持ちが悪い。金を持っているもん勝ちという世の中は腐っていると思う。もはやそういう問題ではなく、倫理観や道徳の話だろう。


 確実に欲しいものが手に入りやすい世の中になってはいるが、本当に欲している人間にものが届かなくなっている例も枚挙に暇がない。あちらが立てばこちらが立たずではないが、バランスというのは兎角難しいものである。


 それはともかく、【Glace】が取り扱っている商品はハンドメイド作品が含まれているとはいえ、すべて正規ルートから仕入れていることを確認した。得体のしれない裏業者と取引しているわけではなかった。


 二日目は、初日で教わった業務を復習しながらひと通り一人で仕事をやっていた。といっても、店内の清掃がほとんどである。


 まずははたきで商品についた埃を払い、ついでに欠損等不備がないかを確認する。それから商品をどかして台を濡らして固く絞った布巾で拭く。これをすべての棚で行ったあと、床掃除に入る。箒で掃いてゴミを集めてから、濡らしたモップで仕上げをする。それらが終わった後は窓拭きに入る――といったような感じだ。


 で、肝心の客入りのほうだが、やはりというべきかさほど多くはなかった。一日に両手で数えられるぐらいしか来ない。それでも、俺が想像していたよりは多いと感じた。


 そして客層については、これも想像の域を脱しないというべきか、客層的には若い女性ばかりだ。たまに男性も来るが、大抵が女性同伴。……それがカップルなのか家族なのかは、今の俺はあまり言いたくはない。


 たまにこういう商品はないかと尋ねてくる客もおり、俺は所在を案内するか、それでもわからなければ海涼さんに聞いてそれに応えるというかたちで接客している。


 接客自体もこれといって難しい部分はなかった。人と会話するのも別に苦ではないし、話を聞いてそれに答えることさえできれば誰にでもできるような内容だ。


 ……と、【Glace】でのバイトはこんな感じだった。


 海涼さんは意味深なことを言っていたが、普通の客しか来ない。買うもの買って帰っていく。いつか見た時のように〝精霊〟が雑貨に宿るといった現象も起きない。この人魂もどきは、ただ店内自由に浮遊しているだけ。


 俺が勝手に、いわゆる訳アリ客しか来ないものとばかり思ってしまっただけだったようだ。拍子抜けしてしまった感が否めない。いや、ここは期待しすぎた自分を恥ずべきか。


 不審感を持っていたくせに、実際に何も起こらないとガッカリするだなんて勝手にもほどがあるという自覚はあるが、それとこれとは話は別だろう。非日常的な現象を求めてしまうのは男のさがだ。


 とはいえ、何も起こらないからと言って仕事をおざなりにしているわけではない。給料をもらう手前、きちんとやるべきことはやっているつもりだ。ただ、掃除やときたま接客をしていても、やはり暇な時間というのはできてしまうもので。


栄路えいじくん、仕事覚えるの早いね」


 俺が黙々と掃除をこなしていると、奥のほうで仕入れた商品を整理していた海涼さんが戻ってきた。


「そ、そうですか?」

「うん。私のやることがなくなっちゃうくらいには」


 ね、と海涼さんが水を向けた先で、抱きかかえられたメルが返事をするようにフニャッと鳴く。そう言われると、なんだか照れてしまう。


「バイトの経験はあるんだったっけ?」

「はい、飲食店のホールスタッフをちょっとだけ」


 落ち着いている時は、こんな風にしょっちゅう雑談をしている。その雑談の中で、業務以外での【Glace】にまつわることをいくつか知った。


 まず、店主である海涼さんは二十四歳でクオーターだということ。おばあさんがフランス人で、海涼さんにもその血が流れている。海涼さんの容姿にも納得だった。


 その海涼さんのおばあさんという人が、この店【Glace】を開業したという。おじいさんの苗字が氷高だったため、そこから氷をとって名付けたらしい。


 それから、海涼さんの名前もおばあさんがつけてくれたのだそうだ。海涼さんが自分の名前をとても気に入っているということはすぐにわかった。おばあさんの話をしている海涼さんはとても優しい表情をしており、おばあさんのことが大好きだったことが伝わってきたのだから。


 そう言うと、海涼さんは笑って肯定した。だから、この店を継ごうと思ったのだと。


 海涼さんが【Glace】の店主になったのが二年前。大学卒業後、亡くなったおばあさんから引き継いで経営を始めたのだそうだ。


 そして、忘れてはいけないのは店内を浮遊するこの精霊のこと。この精霊は、おばあさんが店主だった頃からいるらしい。海涼さんは小さい時から【Glace】に出入りしており、物心ついた頃からすでに目にしていたため、とても身近な存在になっているそうだ。


 で、肝心のこの精霊の正体だが――驚くべきことに海涼さんも詳しくはわからないという。


 そもそも、〝精霊〟という呼称は海涼さんが勝手にそう呼んでいるだけらしい。彼女の幼いころにおばあさんから精霊のようなものだと教わった時から、ずっと精霊と呼んでいるのだそうだ。本当はどういう名前なのかは、やはり海涼さんも知らないとのことだった。


 海涼さんのおばあさんの家系はどうやら西洋魔術的なものにルーツがあるらしく、それの名残なのではないかとのことだったが、海涼さんが詳しく知る前に亡くなったため真相は闇の中となってしまったそうだ。


 西洋魔術にルーツがあるということに、俺は度肝を抜かれた。そんなものが本当にあるのか。いや、実際に精霊をこの目で見ているのだから、その感想はすっとぼけたものになってしまうが。


 ただ、ルーツがあるとはいえおばあさんの代ではすでにだいぶ薄まっており、海涼さん自身にはそういった力がまったくないとのことだった。それを聞いてガッカリしなかったわけではないが、西洋魔術に関係しているということだけでも俺はわりと満足だった。RPG好きが高じてか、それだけで納得しワクワクしてしまっているのだから、俺は大概チョロいのかもしれない。


 精霊はおばあさんが亡き後も消えることなく、この店にい続けている。原理はわからないが、この精霊たちはおばあさんの置き土産ということになるのだろう。いや、形見と言うべきか。だからなのか、海涼さんが精霊を見つめる眼差しは慈愛に満ちていた。


 ――と、俺が知っているのはここまで。精霊の能力的なものももちろん訊いたが、海涼さんは少し考えた後にそのうちわかるかもしれないわと言って、詳しいことは教えてくれなかったのだ。


 ここで働くのに教えてくれないのかと多少不満に思いはしたものの、バイト生活は始まったばかりなのだからこれから知る機会はいくらでもあるだろうと半ば無理やり留飲を下げた。


 そんなこんなで、夏休みのバイト生活は実に平凡なスタートを切っていた。色々悩んだことが馬鹿らしくなるぐらいには、至って普通のことしかないのである。


 特にこれといったことは起こらないが、だからといってつまらないということはない。掃除をしている時は無心でいられるし、海涼さんとのおしゃべりは正直楽しい。


 海涼さんは、俺の話をちゃんと聞いて適度に相槌も打ってくれるし、コロコロと表情が変わるため話しやすいのだ。出会って数日で、歳も違うのにこんなに話しやすいと思える人はそうそういない。きっと海涼さんが聞き上手なのだろう。この店で働くことを通して培ったものなのかもしれない。


 彼女と話しているときは、自然体でいられているような気がする。それがどうにも心地よかった。


 そうして、客がいないのをいいことにいつもどおり雑談をすることしばし。ふいにカランと鳴ったドアベルが、来客を知らせた。


「いらっしゃいませ――」


 お決まりの声をかけてから、俺はふっと息を詰めた。扉が開いた途端、店の空気がふいに変わったのだ。否、店の空気ではなく、〝精霊〟たちの様子がはっきりと変わったのである。


 それまで好き勝手に浮遊していた光の人魂が、ざわざわとし出した。特に音を立てているわけではないのだが、ざわついているとしか表現できない。


「わ、可愛いものいっぱい」


 入ってきたのはひとりの女性だった。スーツをピシッと着こなしており、タイトスカートを履いている。いかにもOL然とした風貌だった。歳は若そうだが、海涼さんよりは上だと思われる。おそらくアラサーぐらいの年齢の人だろう。


「いらっしゃいませ」


 そう言って、海涼さんが女性に近づいていく。俺は少し遠目からそれを見守った。店主が向かったのに俺までついていくのはおかしいし、なんだか余計なことはせず見守っていたほうがいいように思えたのだ。


 とはいえ、じっと見つめているのもそれはそれで妙なため、商品の位置を直すふりをしてこっそり様子を窺う。


「何かお探しでしょうか?」


 続けて海涼さんが話しかけると、女性客は少し驚いた様子を見せたが、物おじせず答えた。


「実は、ここに可愛らしい雑貨がたくさんあるって聞いて見に来て。何か買うと決めて来たわけではないんですが、少し見させてもらってもいいですか?」


 ハキハキとした芯の通ったしゃべり方だ。声のトーンも明るく、表情も和やか。勝手な印象だが、きっと仕事ができる人なのだろう。そんな雰囲気を感じた。


「もちろんです、ごゆっくりどうぞ。何かありましたら、気軽にお声がけください」

「はい、ありがとうございます」


 そこで会話が区切れ、海涼さんは女性客からそっと離れた。


 一見、特におかしなところはない、店員と客の自然なやり取りだ。しかし、俺は違和感を覚えていた。


 まず、海涼さんが来客に自分から話しかけるようなことを普段しないこと。俺がバイトを始めてからは、そんなことはなかったように思う。思い当たる節があるとすれば、俺がまだバイトを始める前に来たサラリーマンぐらいだ。


 そしてもうひとつ。俺はそっと視線を上に動かした。


 この精霊たちの様子がどうにも奇妙なのだ。普段は悠々自適に好き勝手浮遊している精霊が、ゆっくりとだが同じ方向にぐるぐると回転しているように見える。例えるならば、水族館でよく見るイワシの群れに近い。イワシも何十何百もの群れで渦巻くように泳いでいるだろう。それに近しい動きだった。


 今まで来客があったときは、こんな風にならなかった。一体、何が起こっているのだろうか。


 不安になってちらと海涼さんを窺うが、ここの店主は至って平然とした様子で、特に緊迫しているようには見えなかった。


 なら、問題ないのだろうか。特に緊急性のあるなんかヤバい状態というわけではない、と捉えていいのだろうか。


 状況がイマイチ呑み込めずにぐるぐると考えていると、足元でフニャッと鳴き声が聞こえた。メルだ。俺の右足にてしてしと前脚で猫パンチを食らわしてきている。


「メル? どうした?」


 思わず屈むと、メルは相変わらずパンチを続ける。……いや、どうもパンチじゃないな。それにしちゃ、なんだか威力が弱すぎる気がする。


「心配するな、って言ってるんだと思う」


 いつの間にか近くにいた海涼さんが囁くように言った。


 俺は驚く。そうか、これは人間でいうところの、背中や肩をポンポンと叩いて落ち着かせるという行為なのか。


「……ありがとな、メル」


 そっとひと撫でしてやると、メルはその場に腰を下ろしフニャッと嬉しそうに鳴いた。


「あ、猫ちゃん!」


 メルの鳴き声を聞きつけたのか、俺たちが固まって何かしていることが気になったのか、さっきの女性客まで近寄ってきた。


「かわいいですね~。ここの猫ちゃんですか?」

「はい、メルという名の男の子です。実質、ここの店主ですね」


 海涼さんが冗談めかしてそう答える。その言葉がわかったのか、メルが尻尾をひと振りする。心なしか胸を張っているように見えて、どこか誇らしげだった。そんな愛らしい仕草を見た女性客がくすくすと笑う。


「本当にかわいいですね。じゃあ、その店主さんにオススメ聞いちゃおうかな?」


 女性客はノリよく、気持ち腰を落としてメルに尋ねる。すると、メルは腰を上げとてとてと歩き出した。


「え? ちょっと、ほ、ほんとに?」


 メルの予想外の動きに、女性客は戸惑いをみせる。なんなら俺も同じ心境だ。おいおい、冗談だろ?


 俺と女性客はついつい顔を見合わせる。そんな中、海涼さんだけが朗らかな笑みを浮かべていた。


 メルがとある棚の前で立ち止まると、海涼さんのほうに首を巡らせてフニャッと鳴いた。その傍まで近寄った海涼さんが応じるようにメルを抱き上げる。


「どれ?」


 海涼さんが聞くと、棚上の商品を見渡せる高さまで持ち上げられたメルが、右前脚をちょいちょいと動かした。


 俺と女性客が戸惑いながらもそちらに向かう。そうして、メルが指さしている――ように見える方向へ視線を向ける。


 そこは、鏡が並ぶゾーンだった。ノートぐらいの大きめの鏡から、手のひらサイズのコンパクトな手鏡までわりと種類が取り揃えられている。柄や形状も様々で、特に女性には嬉しいのではなかろうか。


 そう考えた時、生意気な身内に、いいよねー男は楽で、と揶揄やゆされたことを思い出した。たしかに、手鏡といった類のものは持ち合わせるまででもないが、俺とて自宅の洗面の鏡で朝しっかり見るし、トイレにいった時とか一度はぱっと確認して身なりには気をつけているつもりだ。それなのにまったく気を遣っていないと決めつけられるのは心外である。


 内心思い出しムカつきしている俺の横で、眼下の商品を見ていた女性客がえっと声をあげた。


「――何か気になるものでもありましたか?」

「あの、これ、触ってみてもいいですか?」

「もちろんです。どうぞ」


 店主の許可を得て女性がそっと手に取ったものは、手のひらサイズの手鏡だった。いわゆるコンパクトミラーというやつだろう。折り畳み式で、開けると鏡面が見える仕様だ。


 外枠と背面は黒で覆われており、背面の四つ角は金で塗られ、小さな赤い模様がちりばめられている。蝋燭の灯火にも見える。全体的に和風な感じのデザインだった。


「お探しのものでしたか?」


 海涼さんが首を傾げると、女性ははっとした様子で軽く咳払いをした。


「あ、いえ……。ただ、このデザインが私の好きな感じだっただけなんですが……でも、どうして」


 女性客は困惑気味にメルを見つめている。なぜ、メルは女性客の趣味嗜好がわかったのか。それは俺も気になる。


 女性客と俺が揃って視線を送ると、海涼さんはにこっと笑ってこう答えた。


「偶然です」


 語尾に☆がつきそうな軽さだった。俺と女性客が揃ってきょとんとする。


「へ、偶然……?」

「はい、偶然です。この子がそれっぽい動きをするだけなんです。不思議ですよね」


 ふふっと笑いながら、海涼さんが自身の腕の中にいる飼い猫を撫でる。撫でられたメルがひと声鳴く。が、あんまり聞いたことのないいつもより低い鳴き声で、なんだか不満そうだ。てしてしと両手で飼い主の腕を叩いている。


「な、なんだ、びっくりした~……」


 女性客はほっと息を吐くと、その手鏡を真剣に見つめ出す。


「やっぱり、……ぽい……」


 手に持ったものを矯めつ眇めつしていた女性客は何事か呟いた。小声だったためよく聞き取れなかったが、彼女はやおらよしと頷くと、海涼さんへ視線を移した。


「あの、これ、買います」

「ありがとうございます」


 朗らかに笑んだ海涼さんが、お会計はこちらで、と女性客をレジカウンターへ案内し出す。


 それを見送っていた俺は、あ、と声が出かけて、慌てて飲み込んだ。渦巻くようにゆっくり旋回していた精霊のうちのひとつがその輪から外れ、女性客のほうに向かって行ったのだ。


 その精霊は女性客が手元まで近寄ると、スゥッと吸い込まれるように彼女が手にしている手鏡に入り込んでいった。もちろん、女性客がそれに気づいた気配はない。元々見えていないのだから当然だろう。


 息を呑む俺の視線の先で、海涼さんがちらと女性の手元に目をやった。おそらく、海涼さんも今のを感知したのだろう。メルが彼女の腕からするりと抜け出すのが見えた。


「――はい、ちょうどお預かりします」

「ありがとうございました」


 会計が終わり、小さな紙袋を持った女性客が扉に向かって行く。その途中で、テーブル上に乗っていたメルに気づくと足を止めた。


「キミのおかげでいいもの買えたよ。ありがとね」


 ぱちっとウィンクを決める女性客に、メルがフニャッと鳴く。それに微笑んでひらりと手を振った女性が再び歩き出すと、ふいに俺と目が合った。軽く会釈されたことで俺は自分の立場を思い出し、慌てて頭を下げた。


「あ、ありがとうございました!」


 扉の開閉でカラリとドアベルが鳴る。そうして、女性客は帰って行った。


 店内に目を戻した俺は、ぱちくりと目を瞬かせた。精霊たちが先ほどとは違って好き勝手に浮遊しており、また元通りに戻っていたのだ。


 俺は振り向くと、カウンターにいる海涼さんの傍に寄った。


「あ、あの、海涼さん、今の人って……」

「ん? うん、お客さんね」

「じゃなくって! あの、精霊が入っていったの気づいてますよね?」

「うん、もちろん」

「なんか、訳アリってことですよね?」

「うーん、訳アリというか」


 海涼さんは困ったように苦笑した。


「栄路くんが言いたいことはわかるわ。でも、訳アリとは少し違うかな」


 訳アリとは少し違う……? ど、どういうことだ?


 状況がよく飲み込めず混乱する俺を見たからか、海涼さんが説明してくれる。


「彼女には、今、深刻な迷いがあるのよ」

「深刻な迷いって?」

「さぁ、さすがにそこまではわからないわ」


 俺の問いに、海涼さんはふるふると首を振り、少し眉尻を下げた。


「何か期待させてしまっていたならごめんなさい。でも、私は何も知らないの。彼女が何に迷っているかも、精霊たちがどういう基準で商品に宿るのかも」


 ただひとつ言えることは、精霊たちは迷いを抱えている人間に力を貸そうとすることだけ。


 海涼さんの言葉を咀嚼するが上手く呑み込めない。少しだけ申し訳なく思いつつも、俺は疑問をぶつける。


「えっと、あの人、どうなるんですか? その深刻な迷いってやつがなくなるんですか?」

「それは私にもわからない。精霊が力を貸してくれるでしょうけど、結局のところすべては彼女次第なの」

「精霊が力を貸すって、どういう風にですか?」

「人それぞれよ。効果も、過程も、タイミングも。精霊の力は、その人が望むほうへ進むことを後押しするだけだから」


 ……なんだか、俺が想像した以上にすべてのことが曖昧だった。海涼さんの言葉が嘘だとは思わない。思わずたじろぎそうになるほど俺をまっすぐ見つめる瞳はどこまでも澄んでいるから、本当にそうなのだろう。


 すっきりとはしないが、今はひとまず呑み込むしかないだろう。でも、やっぱり残念だ。俺は悄然と肩を落とした。


「じゃあ、どういうことが起きるかもわからないんですね……」

「そうね、残念だけど」


 でもね、と海涼さんは続けた。


「いいほうに進んだ時は、けっこうなお客さんが報告に来てくれるの。だから、それを期待しましょう?」


 そう宥められ、俺は渋々頷いた。これ以上のことはわからないなら仕方がない。……あ、もうひとつ、気になることがあった。


「あ、あとさっきのメルの行動って、本当に偶然なんですか?」

「ううん。この子のちゃんとした意思よ」


 海涼さんが目を向けた先で、メルがそのとおりだと言わんばかりにフニャッと声高らかに鳴いた。


「偶然って言っておいたほうが詮索もされないし都合がいいでしょ?」


 そういうことか。感心する人もいるだろうが、悪い方面で妙に思う人だって中にはいるかもしれない。そういう人間相手だと後々面倒だ。なら、偶然と装っておけばとある猫のお茶目な行動としか映らないだろう。


 てか、精霊の存在に埋もれがちだが、メルも大概不思議だ。人間の言葉がわかるような仕草を取るし、人間臭さを感じる時がままある。でも、海涼さんに聞いても〝ちょっと不思議な猫〟としか教えてくれなかった。ちょっとどころじゃないんだが……。


「じゃあ、今日はもう閉店にしましょうか。少し早いけど、お客さんもいないしね」

「あ、はい」


 店主の言葉に従い、俺は閉店準備に取りかかる。


 はぁ、やっぱり残念な気持ちが拭えない。精霊がいる奇妙な雑貨店で働くことになったというのに、ただ精霊が見えるようになっただけ。訳アリ――じゃない、迷いを抱えた人が買ったものに宿る精霊が、その人にどう働きかけるのかを見ることができないなんて。


 怪しんでいたくせして厚かましいことはわかっているが、それでもせっかく不思議な世界に足を踏み入れたのだから、この目で見たいと思うのが人情というものではないだろうか。それとも、俺がゲーム脳すぎるだけか?


 漏れ出そうになるため息を、さすがに聞かれるわけにはいかない。俺は外へ出ると、扉に下がっている営業サインの看板を『CLOSE』にしつつ、堪えていた息をそっと吐き出すしかなかった。


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