第3話 好奇心に勝るものなし




 くあっと漏れ出そうになるあくびを嚙み殺しながら、教室の引き戸を開ける。朝が早めだったせいもあって眠気が残っていた。こればかりはどうしようもない。


 大学は自分で受ける講座を選択してスケジュールを作るから登校する時間も一定ではない。今日みたいに一コマ目から講義がある場合は朝イチで来る必要があるが、その日の受ける講義が午前中になければ午後登校になる。最近ようやく慣れたが、最初は高校までとのギャップで苦労したものだ。


 冷房の効いた教室に入って辺りを見回すと、ほとんどの生徒がだべっている中、ひとりだけすでに教科書を広げて黙々と勉強している背中が目に入った。


真木まき、おっす」

「あ、おはよう、三ヶ嶋みかしまくん」


 隣に荷物を置いて声をかけると、それに気づいた真木がぱっと顔を上げて挨拶を返してくれた。


「何時からここにいるんだ?」

「えっと、一時間ぐらい前かな」

「……マジかよ」


 軽い気持ちで聞いたのに、とんでもない回答が来た。一時間前って、そもそも教室開いてんのか……?


「まさか、今までずっと勉強してたのか?」

「あ、うん。土日はずっとバイトしてたからあんまり勉強する時間取れなくて……」


 えへへ、と真木は誤魔化すように笑う。俺はさすがに呆れ返った。


「お前なぁ……。マジで身体壊さないようにしろよ?」

「うん。なんだか心配ばっかりかけてごめんね」

「ったく……ああ、そうだ、これ良かったらもらってくれないか?」


 俺はふと思い出し、バッグから取り出した紙パックの野菜ジュースを真木の目の前にとんと置いた。


「え? 三ヶ嶋くん、これ……」

「今朝コンビニでエナドリ買ったんだけどさ、そしたらなんかキャンペーンやってたっぽくてもらっちまったんだ」


 俺はエナドリが飲みたかっただけだから、野菜ジュースをもらったとて飲む気にはなれない。なら持ち帰ってまた飲めばいいだけではあるが、この真夏に野菜ジュースを常温で長時間持っておくのはどうにも憚られる。てか、エナドリ買ってついてくるのが野菜ジュースって組み合わせ的にどうなんだ?


「だから、もらってくれると俺がすごく助かるんだが……迷惑か?」


 少しズルい言い方だった自覚はあるが、真木は少し悩んだ末に受け取ってくれた。


「ありがとう、三ヶ嶋くん」

「いや、礼を言うのは俺のほうだ。おかげで助かったぜ」


 口では軽々しい言葉を放ちつつも、内心では安堵していた。


 真木は差し入れに対して非常に遠慮がちなのだ。俺は以前、真木の身の上を知って昼飯を奢ってやろうとしたことがある。人に奢れるほどの余裕があったわけでもなく、どの立場からそんなことをしようとしたんだという話だが、当時の俺は深く考えもせず調子に乗っていた。


 無論、上からものを言っていたわけではないし、友人が心配だったのは本心なので、一応善意のつもりではあった。しかし、真木はものすごく遠慮した。その様は怯えにも近しく、傍から見たらこちらがいじめているのではないかと誤解されそうだったため、あの時は慌てて引いたのだ。


 その時に、幼い頃に家庭の事情でいじめられたことがあると聞いたことを思い出した。どうもそれが影響しているらしく、俺は自身の軽率な行動を反省したのだった。


 それ以降、俺は真木に何かをあげる時は慎重に接するようになった。だから変に気を遣われないように、俺が困っているから助けてくれという風に言ったのだが、なんとかもらってくれてよかった。


「そういえば、先週バイトの面接だったんだよね。どうだった?」

「……あー」


 そういえば、真木には面接の日取りを伝えていたのだった。なら、結果がどうだったのかは気になって当然だろう。


 気持ちはわかるが……さて、どう伝えたものか。俺はしばし悩む。


 あの奇妙な雑貨店に巡り合ったのが先週の金曜日。その翌日目が覚めた俺は、あれはすべて夢だったのではないかと思った。しかし、スマホの電話アプリを開くと、面接予定時間過ぎにこちらから電話をかけた履歴がはっきりとあった。ついでに、アドレス帳に『氷高ひだか海涼みすず』と名前で電話番号も登録されてあったのだ。いつの間に登録したのか記憶に定かではない。なにせ、そこらへんから俺はほぼ放心していたのだから。


 ともかく、それらの証拠はあの金曜日の出来事が現実であることを物語っていた。


 まぁ、それはいい。百歩譲ってそこまではさして問題がない。重要なのは、あの〝精霊〟とやらについてだ。


 あれだけはどうにも信じがたい。俺がこう思うのも、ただあり得ないと思っているからというだけではない。


 【Glaceグラース】の中で視えるようになった、海涼さん曰くの〝精霊〟。俺はこの土日、飯の買い出しとかで外を出歩くことがあったが、あれから一度もその浮遊する謎の光を視ていないのだ。


 だから、あれの存在が幻覚だったのではないかと疑っている。でなければ、〝精霊〟とやらはあの雑貨店の中にしかいないのではないかのどちらかだ。


 果たして、俺は本当にあそこで働くべきなのか。海涼さんもあの得体のしれないものの正体については詳しく教えてくれなかった。だから、結局あれの正体もどういったものなのかもどういう原理で存在しているのかも何もかも不明なままだ。


 思えば、あのオッドアイの猫も最初からそこらの猫とは一風変わっていた。自分で登った木から降りられないなどといったポンコツぶりだったが、それこそ何か狙いがあったのではないだろうか。


 疑い出せばキリがない。情報が少なすぎて、どうするのが正解なのかがまったくわからないのだ。


「三ヶ嶋くん?」


 俺が遠い目をしているのを不思議に思ってか、真木が首を傾げている。


「あ、わりぃ。実は、面接予定だったとこ、遅刻しちまってナシになったんだ」

「え、そうだったの?」


 大丈夫なの? と真木が心配そうに見てくるので、俺は慌てて言い繕った。


「でもな、別のとこでバイトすることになってさ……」

「そうなんだ。それはよかった」


 ついバイトすること確定の体で言ってしまった。だが、それを聞いて真木は自分のことのように安堵してくれている。本当にいいやつだ。


「どんなとこなのか聞いてもいい?」

「あー、それが、雑貨屋なんだけどな」

「へぇ、雑貨屋さんか~。いいね、三ヶ嶋くんオシャレだもんなぁ」


 雑貨屋という単語で真木が何やら感心している。いや、雑貨店で働くのにオシャレかどうかは関係ないんじゃないか。なんでも感心されると少々やりづらいが、まぁ真木はこういうやつだ。ここはひとまずつっこまないでおこう。


「でも、あんまり乗り気じゃなさそうだね?」


 ふいに鋭いところをつかれ、俺はドキッとした。頭がいい奴はそういうのも簡単に見抜けるのだろうか。


 などとバカなことを思ったが、それほど俺の表情や言葉の端々に滲んでいたのだろう。俺は頭を掻いた。


「いや、それがちょっと変わったとこでさ。本当にあそこでバイトするか悩んでて……」

「変わったとこ?」

「あー、まぁその、なんだ、とにかくちょっと普通じゃないっていうか」


 実は精霊がいるんだ――なんて言えるわけがない。俺の頭がおかしくなったのだと思われるのがオチだ。真木はそんなこと思わなさそうだが、もし思われたらさすがにショックがデカそうだった。


 だから、あんまり本当のことは言いたくなかったため、ぼやっとした言い方しかできない。だいぶ不自然なぼかし方になったが、真木は言及してくることなくそうなんだと頷いた。


「でも、三ヶ嶋くんならきっと大丈夫だと思うよ」

「え?」

「ごめんね、根拠なんかないんだけど、僕はそう思う」


 もちろん、どうしても無理ならやめておいたほうがいいと思うよ。でも、そうじゃないなら、一度やってみるのもいいんじゃないかな。そうしたら、自分に合う合わないもわかると思う。


 そこまで言って、真木ははっとしたようにわたわたする。


「って、ごめんね! 僕なんかが偉そうに!」

「……いや、そんなことないさ」


 俺が躊躇している理由は合う合わない以前の問題ではあるが、なんだか真木の言葉に勇気をもらえた。俺はにやっと笑う。


「先輩の言うことは聞いとかないとだもんな」

「せ、先輩!?」

「ああ、バイト歴じゃあ真木は先輩だろ?」

「や、あの、僕なんか全然……!」


 真木があたふたとしている様がさすがに面白くて吹き出すと、真木はからかわれたことに気づいたらしい。もう、からかわないでよ……と怒られた。俺はごめんごめんと謝る。


「でも、なんか今の、前の三ヶ嶋くんっぽかった」

「前の俺……?」

「自然な感じっていうか……って、ご、ごめん、あの、変な意味じゃなくってね?」


 またもや真木がわたわたとする。前の俺ってのがよくわからないが、ともあれ真木のおかげで俺の心は決まった。


「俺、ひとまずやってみるわ」

「そっか、うん。がんばってね!」

「おう、お前もあんま根詰め過ぎんなよ。休む時にきちんと休まないでぶっ倒れちまったら元も子もないからな」

「あはは、うん。ありがとう、気をつけるよ」


 互いにエールを送り合ったところでチャイムが鳴り、いつの間にか教壇に立っていた講師がしゃべり始める。すると、隣からカリカリとノートにペンを走らせる微かな音が聞こえた。


 真木にああいった手前、もう後には引けない。不安が消えたわけではないが、ひとまずもう一度【Glace】に行って氷高さんに色々聞いてみるしかないか。


 室内に響く声を聞くともなしに聞きながら、俺は海涼さんに聞くべきことをつらつらと考え始めた。



  ▼  ▼



 そうして数日が経ち、夏休み前日を迎えた。つまり、一学期終業日である。


 大学の夏休みは長い。なんと二ヵ月もあるのだ。サークル活動に精を出したり、プライベートで毎日のように遊びに行ったり、バイトに勤しんだり、ゼミを受けたり、学生たちは各々の夏休みを過ごすことになる。


 真木と挨拶を交わして別れた俺は、教室を出て廊下を歩いていた。少しぼんやりしていたせいだろうか、ふと俺の前方に見慣れた連中がいることに気がつく。


「……っ」


 ギクッとして、咄嗟にすぐそばの通路に身を隠す。そうして、そっと様子を窺った。


 男女入り混じった学生が数名で固まり、談笑しながら廊下を歩いている。彼らは、俺と同じサークルの仲間たちだった。


 その中で、ひと際目に留まり、俺の胸中をざわつかせる人物がいた。


 サークル仲間であり――元カノでもある植田うえだ早紀さきの姿がそこにあった。


 サークル仲間の連中はデカい声で時折笑い合っている。若干距離がある上に他に行き交う学生たちで周りが騒然としているため、会話の内容をはっきりと聞き取ることは難しいが大方夏休みのことでも話しているのだろう。


 本来なら、俺もあそこにいるはずだった。あいつらと川や海に行くなど普通に遊んだり、ちょっとした旅行をしたり、大学生ならではの夏休みを謳歌できるはずだったのだ。


 実際、俺はサークルメンバーに誘われていた。夏休みはサークルの面々で色々計画を立てているからお前も来いよ、と。


 しかし、俺はやんわり断ったのだ。すると、仲間たちはそうかと言ってあっさりと引き下がった。なぜなら、あいつらも俺と彼女の間に何があったのかを知っているから。


 俺がサークルに顔を出さなくなったのは、たしかに早紀の存在が大きい。けれども、それだけではない。事情が事情なだけに、どうしたってサークル内の空気を気まずくさせてしまうからだ。


 そんな気を遣わせるのは不本意だ。そうなると、当事者のうちのひとりがいなければまだマシだろう。そう思ってサークルに出ていないというのもまた事実だった。


 サークルメンバーもそれがわかっているので、変に食い下がってくることはなかった。俺の景気の悪い雰囲気を感じ取ってか、いじったりからかったりしてくることもなかった。どころか、気が向いたらまた顔を出してくれとさえ言ってくれている。申し訳ない気持ちでいっぱいだが、どうしても気持ちが切り替えられないのだ。


 もう一度、連中の様子を窺う。仲間たちと談笑している早紀は楽しそうだった。心の底から。


「…………」


 そういえば、彼女の楽しそうな顔を見たのは随分と久しぶりな気がする。その久しぶりの期間には、まだ付き合ってた頃も含まれている。


 一体いつから、彼女は楽しくないと感じていたのだろう。


 そう気づいたら、胸がズキリと痛んだ。一瞬だけの痛みではなく、その後ジクジクとずっと居座り続けるような痛み。


 遠ざかっていく背中が、通路を曲がって消えていく。曲がった先を進むとサークルの活動場所があるのだ。


 それを確認し、努めて深呼吸をした俺は身を隠すのをやめ、構外へ向けて歩き出した。俺と一緒にいないほうが早紀は笑顔になる。なら、これでよかったんだ。


 いまだに痛み続ける胸を無視し、俺はそう自分に言い聞かせてひたすら足を動かし続けた。幸いというべきか、俺にはこのあと大事な予定がある。今はそちらが優先だ。


 そう誰にともなく胸中で言い訳しながら、俺は足早にその場を立ち去った。






「……案外、普通に着くもんなんだな」


 地図アプリを開いたスマホから顔を上げ、そう独り言ちる。


 扉の真上に設置された大きな看板には【Glace】と書かれている。以前、俺がオッドアイの猫に連れてこられた場所だ。


 あの時はメルについて行っただけなので正直道など覚えておらず、再びたどり着けるのか不安だった。ダメ元で地図アプリを開き、店の名前で検索したところ普通にヒットした。そうして、ルート案内を頼りに来てみたら特に迷うこともなくあっさり到着してしまったのだ。


 こうして来てみると、そこまで入り組んだ道でもなかった。まぁアプリが示すルートを辿ったから以前来た道とは異なっているし、あの時は猫の背中を追ってひたすら進んでいたというのもあり、余計そう感じてしまっただけなのかもしれない。


 無事に着けてほっとすると同時に、やや残念な気持ちもあった。あれだけ思わせぶりだったのだからたどり着くのに一苦労あるとか、こう、もう少しなんかないのだろうかと。


 我ながら理不尽かつ面倒なことを要求している自覚はある。怪しさは拭いきれていないくせに、非日常的な状況に高揚感を抱いているのもまた事実なのだから。非常に複雑な心境である。


 まぁそれはいい。今日、俺は見極めに来たのだ。本当にここで働くべきかを。


 ひとつ深呼吸をしてから意を決すると、『OPEN』と刻まれた木の板がかかったドアを開いた。


「こんちはー……」


 カランという軽快なドアベルの音を鳴らしながら、そろそろと【Glace】に入る。すると、店内には以前と同様に、いくつもの人魂のような光が浮遊している光景が広がっていた。


 やはり、あれは夢ではなかった。


 そういえば、初めて店内に入った時、不思議な感覚が身体を巡った。あれって、もしやこの精霊とやらに関係してたりするのか?


「いらっしゃいませ――あ、栄路えいじくん」


 店の奥から、ドアベルの音を聞きつけたらしい海涼さんが姿を現した。入ってきたのが俺と認識するや、海涼さんは朗らかな笑みを浮かべて迎えてくれた。


「今日で終業だったのよね。お疲れさま」

「はい、ありがとうございます」


 真木に相談してから、俺は一度海涼さんに連絡を取っていた。そういえば、【Glace】で働くという話になってから具体的な話ができていなかったのだ。まぁ、それどころではなかったというのも原因だが。


 いつから行けばいいのかなどわからなかったので諸々尋ねた時、夏休みの期間のことを聞かれた。大学の夏季休暇が約一ヶ月半で、二学期開始が九月の半ば。それを伝えると海涼さんは少し考えたあと、仕事内容など諸々一度詳しく話したいから終業日の学校帰りに店に寄ってくれないかと言われた。俺はそれを承諾し、今日大学を出てからそのままここに来たのである。


「どうぞ、そこに座って?」


 海涼さんに促され、店の隅のテーブル席に腰を落ち着かせる。


「じゃあ、さっそく仕事内容について話そ――」


 その時、カランとドアベルの音が響いた。ドアが開き、人影が中に入ってくる。


「ごめんね、ちょうどお客さん来ちゃったから、ちょっと待っててくれる?」

「ああ、はい、俺は全然大丈夫です」

 

 ぱたぱたと手を振ると、海涼さんはありがとうと言って来客のほうへ向かって行った。


「フニャッ」

「おわっ!?」


 海涼さんの背を目で追っていた時、ふいに鳴き声が耳に飛び込んできた。びっくりして慌てて首を巡らすと、テーブルの上に黄色と水色のオッドアイの猫が座っていた。海涼さんの飼い猫、メルだ。


「おま、いつの間に……?」


 そういえば、さっきまで姿を見ていなかった。一体どこへ行っていたのやら。


「ったく、心臓に悪いからもっとわかりやすく出てきてくれよ」


 俺が軽く文句を言うと、言葉が通じたのか通じていないのかメルはフニャッと鳴くだけ。たぶんだが、反省の色はなさそうだった。


 ひとつため息をついた俺は、再び海涼さんのほうに目線を合わせた。視線の先で、店主は来客と何やら会話をしている。


 本当に客が来るんだな、と失礼なことを思ってしまった。この間来たときも人影がなかったため、そう思ってしまったのだが、よくよく考えればそんなわけがない。あの時はたまたまだろう。


 そうして、来客を改めて観察する。その客は三十代と思しき男性だった。スーツ姿で会社員然とした雰囲気だ。サラリーマンだろうか。その堅苦しい格好が店内の雰囲気とは馴染まず若干ちぐはぐしている。


 それが男性のほうでもわかっているのか、どこか落ち着かない様子でキョロキョロと店内を見回している。一瞬何かの営業に来たのかと思ったが、時折聞こえる会話からしてどうもそういうわけではないようだった。つまり、普通の一般客だ。


 初めて来たのだろうか。俺がこう言うのもなんだが、たしかにここの店の雰囲気はサラリーマンどころか男性にはあまり縁がなさそうだ。


 となると、誰かへのプレゼントでも買いに来たといったようなことを考えるのが妥当だろう。けれども、どうにもそんな感じがしなかった。


 どことなく、来るはずではなかったのに来てしまったというような雰囲気を感じる。それがわかるのは、きっと俺も同じようにしてこの店に巡り合ったからだろう。


 男性には、店内に浮遊している光の群れが見えていないようだった。もし見えていれば、俺のように目で追うぐらいしているだろう。


「あ」


 俺は目を見張った。ふいに、店内を浮遊していた光のひとつが不自然な動きを見せた。その光はすっと群れを離れていく。


 そうして、光はある雑貨に近寄ると、すっとその中に入り込んでいった。雑貨がやや光を帯び、そうして消えた。


「――こちらなんてどうでしょうか。今のあなたにぴったりだと思いますよ」


 驚いて呆然としている俺の目の前で、海涼さんはその光が入り込んだ雑貨――小皿を男性に示した。男性は驚いたような表情をして雑貨を矯めつ眇めつしていたが、勧められるがままにじゃあ買いますと言った。


「はい、ありがとうございます。お会計はこちらでどうぞ」


 海涼さんはレジのほうに進み出した。カウンターの位置的にテーブル席を横切るかたちになるため、途中で海涼さんたちとすれ違う。ふと男性と目が合い、目礼されたので俺も軽く顎を引いた。


 海涼さんがレジで商品コードを打って伝えた金額はさほど高くない。相場に詳しくはないが、至極妥当な値段だろう。


「うまくいくといいですね。もしよかったら、また結果を教えてください」


 会計を終え、海涼さんは紙袋に入れた商品を差し出しながらそんなことを言った。男性はへどもどと頷き、渡された購入品を受け取って店を出て行った。


「ありがとうございました」


 一礼して客を見送った海涼さんがこちらに戻ってくる。


「お待たせ」

「あ、あの」


 席についた海涼さんを俺はさっそく問い詰める。


「あの人が買った小皿に、この光が入り込んだように見えたんですけど」

「ええ、そうね」


 俺が精霊を指さしながら言うと、海涼さんはあっさりと頷く。


「だからあの商品を選んだの。きっと、あの子が力になってくれるはずだから」

「そ、そうですか……」


 大丈夫、なのだろうか。一連の光景を見て、またもや不安がせり上がってきてしまった。


 正直なところ、まるで詐欺現場にでも出くわしたような気分だった。今のあなたにぴったりとか、願いが叶うなどと言って客に物を売る。こんなの、詐欺の代表的な手口だろう。とはいえ、詐欺というには売値が安すぎる気はする。これで詐欺として成り立つのかは甚だ疑問だ。


 と、ここまで怪しんでおいてなんだが、詐欺の可能性は限りなく薄いように思えた。そう思う最大の理由が、この店内に浮遊する光たちだ。


 海涼さんが〝精霊〟と呼んでいたこれらが意味するところを、俺はよくわかっていない。海涼さんの言葉が正しければ、この精霊とやらは悪さするわけではないという。なら、一体何をするのだろうか。


「――何か、疑ってる?」


 見透かされたように言われ、ビクッと肩が跳ねる。完全に無意識だったが、それが答えのようなものだ。


 ええと、と言い澱む俺を見ても海涼さんは気を悪くするふうでもなく、まぁそうよねなどと言って微笑んだ。


「じゃあ、こういうのはどう? 私のことを……ううん、この店のことを栄路くんが見定めるの。それで、もし信用できない危ないところだと感じたならバイトを辞める。なんなら、警察に通報してくれてもいいわ」

「え、ええ!?」


 俺はギョッとする。さすがに通報までは考えていなかった。


「で、どうかな?」


 慌てる俺をよそに、海涼さんはこてんと首を傾げながら訊ねてくる。疑いをかけられているというのは気分の良いものではないだろうに、この店の店主はそんなことは微塵も気にしていないとでもいうようにどこか楽しそうだった。


 水面のような瞳がまっすぐに見つめてくる。その視線を受けて、俺も正直に自分の心情を吐露した。


「……すんません。海涼さんの言うとおり、俺はこの店で働くことにちょっと不安を感じてます」


 海涼さんはただうんと頷いて、黙って話の続きを待っている。海涼さんは真剣に話を聞いてくれている。俺がどんな答えを出そうとも、それを受け止めてくれるだろう。精霊云々はまだ正直疑念だらけだが、海涼さんが悪い人だとはどうしても思えなかった。ならば、俺も真剣に答えるべきだと思い、素直な気持ちを伝える。


「だから、この店――【Glace】のことをちゃんと知りたいと思いました」


 不思議と、すらすら言葉が出てくる。そうだ、怪しみながらも俺がこの店から出て行かないのは、やっぱり気になるからだ。


 今更バイト先変更は厳しく、夏休みが虚無の時間で終わるのだけは避けたいという気持ちがあるのは確かだ。だが、それを抜きにしても、純粋な好奇心のほうが疑念よりも勝っている。何しろ知らないことや謎が多すぎるのだ、この不思議な雑貨店は。


 知りたい、雑貨店【Glace】がどういったところなのかを。


「ってことなんで、俺の意志は変わってません。ここで働かせてもらいたいので、よろしくお願いします」


 俺が自分への言い聞かせる意味合いも含めてきっぱり言うと、海涼さんは嬉しそうに爽やかな笑顔を浮かべた。


「うん。ありがとう、栄路くん。改めて、よろしくね」

「はい!」


 海涼さんは机上のメルを抱き上げて、自身の顔の前まで持ち上げた。


「やったね、メル」


 飼い主が笑いかけると、メルがそれに応えるようにフニャッと鳴く。飼い主と同様、どこか嬉しそうな響きを感じた。


「じゃあ、さっきの続きから説明を進めるわね」

「はい、お願いします」


 精霊のことも結局よくわからないまま決めてしまったが、その精霊がなんなのか見定める意味も込めて、これからやっていけばいい。少なくとも、氷高さんのことは信じられると思うから。


 こうして俺は決意を新たに、正式にここで働くことになったのだった。


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