積年の想い

「逃がしちゃった、か」


 霧が完全に晴れてから、閑斗は周囲を見渡した。霧業の姿はどこにも見当たらなかった。


「適当に投げたけど、上手く当たったものだね」


 霧業の腕が転がっているのを見て、閑斗は呟いた。その腕は徐々に消え始めていた。

 閑斗はそれに目もくれず、落ちている扇子を拾い上げる。

 それを大事そうに懐にしまうと、御樹の方に近付いてきた。


「大丈夫かな」


 そして、座り込んでいる御樹に手を差し出した。


「は、はい」


 御樹はその手を取ろうとして、動きが止まった。差し出された手が右手ではなく左手だったからだ。

 閑斗は御樹の様子を見て、小首を傾げていたが、すぐにその理由に気付いた。

 差し出していた左手を引っ込めると、代わりに右手を差し出した。

 御樹が閑斗の右手を掴むと、閑斗はゆっくりと御樹の体を引き上げた。


「ありがとうございます」


 立ち上がった御樹は閑斗に礼を言った。


「どこか、体におかしなところはないかな。結構いい一撃をもらっちゃったみたいだからね」

「いえ、大丈夫です。直撃はしませんでしたから」


 心配する閑斗に、御樹はそう答える。霧業の一撃を防いだ両腕に痺れが残っていたが、それ以外はさして問題はなさそうだった。


「どうして、高宮の舞で戦わなかったんだい」

「それは……」


 閑斗にそう聞かれて、御樹は言葉に詰まってしまう。


「あ、別に責めているわけじゃないんだ。御樹ちゃんの体術は俺よりも上だしね。ただ、霧業との相性も考えると、高宮の舞の方が良かったと思ったから」


 御樹が言葉に詰まったのを見て、閑斗は優しく諭すように言う。


「わたしは……ずっと、高宮の家にいたわけではないんです。姉に比べて、ずっと劣っていましたから、そのせいもあって、鈴川の家に出されました。そこで、鈴川の武術を学んできました。長いこと離れている高宮の舞より、鈴川の武術の方が馴染んでいると思いましたので」


 御樹はゆっくりと、一言一言確かめるように答えた。


「二兎を追う者は一兎をも得ず、じゃないか。そんな中途半端なことをさせられれば、身に付くものも身に付かなくなってしまいそうだけど」

「それは、わたしに高宮の舞の適性がない、そう判断されたからだと思います」

「それは、御琴と比べて、ということなのかな」

「はい」

「いくら何でも、暴論が過ぎるね。御琴の技量は素人の俺から見ても凄まじいものだった。御琴に匹敵するような人間なんて、そういるとは思えないけど」


 閑斗の表情は、どこかしら怒っているかのようにも見えた。


「でも、わたしが姉に遠く及ばないのは事実ですから」


 御樹は弱々しく首を振った。


「だから、それが暴論だって言っているんだよ。御琴と比較するんじゃなくて、御樹ちゃんが砕下と戦えるかどうか、で判断するべきだと思うよ」


 閑斗にそう言われて、御樹は閑斗の顔をじっと見てしまった。普段から御琴と比較され続けていたこともあって、御樹自身の実力で判断されたことがなかった。

 御樹自身の実力で判断するべきだ、と言われたことも始めてだった。


「どうしたんだい」


 御樹が自分の顔をじっと見ていることに気付いて、閑斗は穏やかな表情で言う。


「それよりも、宮瀬さん。あなたの力は……いえ、どうして、あなたから砕下の気配を強く感じられるのですか」


 そこで、御樹ははっとしてそう言った。閑斗からは砕下そのもの、といっていいほどの強い砕下の気配が今でも感じられた。


「あっ……緊張していて、力を解除するのを忘れてたよ」


 閑斗がそう言うと同時に、それまで感じられていた強い砕下の気配が消え去っていた。


「どうなって、いるのですか」

「俺は、必要に応じて砕下の力を使うことができるんだ。力を使った時に、砕下の気配が強く出てしまうんだと思う」

「どういう、ことです」


 御樹は閑斗の言葉が理解できずにいた。というよりも、信じられなかった。今までの歴史の中で、砕下の力を使いこなす人間は存在しなかった。


「一度、砕下に喰われかけたことがあってね。どういうわけか、その時に逆に砕下の力を取り込んでしまったみたいなんだ。まあ、できることは身体能力の強化くらいだけどね。それでも、並の人間を遥かに凌駕しているみたいだけど」

「でも、それならおかしなことがあります。例えば、その扇子です。宮瀬さんもご存知の通り、その扇子は砕下にとっては劇物です。砕下の力を使いながら扇子を使うなんて、できるはずがありません」

「俺は、力だけを使っているに過ぎないからね。体は人間と変わらないよ。だから、扇子を使うことも問題なくできるよ」


 閑斗がそう言うのを聞いて、御樹は頭が真っ白になっていた。というよりは、ぐちゃぐちゃになってしまった、という方が近かった。

 次の瞬間には、自分でも気づかないうちに閑斗に詰め寄っていた。


「御樹ちゃん?」


 その様子にただならぬものを感じたのか、閑斗は怪訝そうに御樹を見る。


「……どうして」


 御樹は閑斗の制服の胸元を掴んでいた。


「どうして、あなたにそんな力があるんですか。わたしが、わたしが、あんなに頑張って、努力して、それでも得ることのできなかった力を、どうして」


 御樹の掴んだ手に力が入る。


「御樹ちゃん……」


 閑斗はかける言葉が見つからないのか、御樹のなすがままになっていた。


「お姉ちゃんが死んでから、みんなお姉ちゃんの代わりをわたしにやらせようとする。わたしは、それに応えようと努力してきた。でも、みんなの期待に応えることなんてできなかった。お姉ちゃんとわたしじゃ、何もかもが違う、違うんです」


 半分泣きそうになりながら、御樹はそう続けた。


「お姉ちゃんの代わりなんて、わたしにできるわけないのに」


 心が挫けてしまったのか、最後の方は途切れるような感じになっていた。


「……そうだね。御琴の代わりなんて、誰にもできないね。だから、俺も御琴のことがずっと忘れられずにいる」


 閑斗は自分の胸元を掴んでいる御樹の手を、優しく包むように握った。


「あなたまで、そんなことを……」


 御樹の手から自然と力が抜けていく。


「だけど、御樹ちゃんの代わりも、誰にもできないよね。だから、御琴の代わりじゃなくて、御琴の分まで、御樹ちゃんのできる範囲で頑張ればいいよ」


 閑斗の言葉はとても優しくて、御樹の心底に染み渡るようだった。そして、そんなことを言われたことは初めてだった。


「あなたに、そんなことを言われなくたって……」


 もう、限界だった。今までの想いが堰を切ったように流れ出してくる。

 御樹は声を上げて泣き出していた。

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