深夜の病室に飛び込んできた何か

 うちの家族は長い間誰も入院したり手術したりということはなかったんですが、ある年、いきなり母が倒れて命の危機に陥り、手術をすることになりました。


 病名は「くも膜下出血」です。脳の動脈にできた「動脈瘤どうみゃくりゅう」というこぶが破裂して中で出血を起こし、最初の発作で三分の一が、次の発作でさらに三分の一の方が亡くなり、助かった方の中でも三分の一の方に後遺症が残るという恐ろしい病気です。

 脳ドッグなどで動脈瘤を発見し、早めにクリップで留めたり中にワイヤーを詰めたりするだけで怖い発作を起こす可能性はかなり低くなるので、見つかって早め早めに処置される方も今は増えているようです。


 当時、私は「運命の取り替えっこ」で書いた職場に勤めていて、妹は転職して新しい会社に正社員として採用されたばかりでした。うちは自営業なので家の仕事もあります。それで母が倒れたことで私が仕事を辞めることになりました。

 もっともそれ以前にもう少ししたらその仕事を辞めて、東京で「何か文章を書く仕事を探そう」と、東京の友人宅に転がり込んで仕事と住処を探すつもりでいたので、どっちにしてもその頃にその職場を辞める予定ではいたんですが、それ以降は他にも色々なことが続き、結局今までその仕事を続けることになりました。まさか父が亡くなって一人になってもその仕事を続けるとは思ってもいなかったですが。


 母は倒れてほんの10分で近くの病院に運ばれ、救命措置を取ってもらったおかげで一命を取り留めましたが、次に出血が起きたらその時は覚悟してくれと言われていました。そしてそこから脳外科の手術ができる病院へ転院することになります。最初に運ばれた病院にはそれだけの設備がなかったからです。


 母が倒れたのは7月の最初の方ですが、次の病院では3週間待って手術をすると言われました。出血したこぶのところをクリップで留めて、もう出血しなくする手術なので、どうしてすぐにしてくれないのかと思ったんですが、先生の説明はこうです。


「今、お母さんの頭の中では嵐が吹き荒れてる状態です。だから本当はその嵐が収まってから手術をした方がいい。ただ、次の出血が起きたら緊急手術をします」


 それからの3週間の長かったこと。刺激を与えてはいけないというので、カーテンを締め切った個室で何かあったらすぐ連絡できるように、ずっと誰かが付き添っていました。

 私が主につきそいをし、妹は事情を話して半日勤務にしていた仕事から早く帰り、家で父親の食事と、当時は鳥がいたものでその子の世話をしてから病院に来ます。翌朝は病院から仕事に行き、帰ってまた夜に病院に来る。1日中病院も大変でしたが、妹も大変だったろうなと今でも思います。

 父親は夜、仕事を終えたら毎日来て、本当は面会時間は9時までで終わってるんですが、その頃にしか来られないので来て、母の顔を見てから帰る生活でした。

 転院したことから家からは遠い病院、市外まで毎日本当に2人とも大変だったろうなあ。


 多少変則的なことはありましたが、基本はそういう生活が3週間続きました。そしていよいよ手術の前日。その日は妹も父も前日の夜から来て、一緒に泊まることになりました。

 もしかしたらということもある。なんともいえない時間が過ぎていきました。


 寝ようと思っても正直あまり寝られない。そしてその病院、当時は夜になったらエアコンを切ることになってました。暑かったので父親と一緒に廊下に出て涼んでいた時、それは起こったのです。


 個室に母と一緒に残っていた妹がいきなり部屋から飛び出してきて、私に、


「なんか変なもんが部屋に入ってきた!」


 と、必死に訴えるんです。


「何かって何?」

「なんか、狐みたいなもん!」


 はあ? きつねー?


 意味不明でしたが部屋に入ってみると何もない。


「なんもないやん」


 部屋の中は静かなものです。


 そしたら妹が、


「あれ、あれ!」


 と、私にしがみついてブルブル震えるんです。


 私には見えない何かがどうやら部屋に飛び込んできたらしい。いや、私には全く見えないのでなんとも言えませんが。


 それで私はその見えない何かに向かって怒鳴りつけたんです。


「なんかしらんけど人の部屋に勝手に入ってくるな! 出ていけー!」


 そんなことをいくつか続けて怒鳴り続けたら出ていったらしい。


 それで私が出ていって妹と母だけになるとまた入ってきたらしい。


「またか! 今度来たら承知せんからな!」

 

 私はまたその何かをそうやって怒鳴りつけて追い出し、妹にも、


「あんたもそうやって怖がるから面白がってくるんや、しっかりし!」


 と、叱りつけてからは何も入ってこなくなりました。


 翌日手術だというのにそういうことがあって、とっても不安でしたが無事に手術は終わり、予定より時間はかかりましたが母は後遺症もなく無事に退院し、秋からは平和な生活が戻ってきました。


 ただ、手術の後しばらくICUにいた時、まるで野戦病院のようにずらっとベッドが並んでいて、付き添いの人はそこにある缶みたいな物入れを並べて簡易ベッドみたいにして寝てるしかないので、妹がついていてくれる時間には、私は交代で一人でその個室に戻ってソファベッドで寝てましたが、妹は絶対に個室で一人にはなりませんでした。一人であの部屋にいるのは怖いということで。


 今度のこの企画は関係なく、先日妹が来た時に、おそらくその時以来初めてその時の話をしたんですが、


「いやいや、やめてやめて! 忘れた! 怖い話嫌い! あれは気のせい!」


 と、一切その話をしたがらなかったので、本当はどういうことがあったのかちゃんと覚えてはいるようです。


 しかし、長い間その話を一切しなかったのに、なんで私はそれを妹に聞いてみようと思ったんでしょう? まるでこの企画が始まるのを知っていたように……

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