襲撃の朝、母の忠告(1/2)

 男女比の狂った世界に転移してから、今日で1ヶ月が経った。

 転移した当初は、右も左もわからず、この先、自分はどうなるのかと心配で不安だった。

 しかし、今では落ち着きを手に入れ、この世界の生活にもやっと慣れてきた。


 自分にしては早いほうだが、それは成長したとか、弱さを克服したとか、そういう訳ではない。

 元々、肉体がこちらの世界で生活しており、そこに俺の意識が芽生えたというか、入れ替わったというか……。

 要は、中身が変わっただけで入れ物が変わっていないから、適応が早かったということだ。

 

 そんな、順応した生活の中でも苦手なことがいくつかある。

 その1つが、朝に行われる母とのスキンシップである。




「ほら、いってらっしゃいのチューは?」


 日曜日の朝、スーツに身を包んだ女性が玄関で子供のようにキスをねだっている。


「……やっぱり、恥ずかしいんだけど」

「もう、毎日やってるんだから、今更よ! それに息子が母親にいってらっしゃいのチューをするのは当たり前! 恥ずかしくないの!」

「ほんとに?」

「あ~、疑うの!? ママを疑うのですか?」


 腰に手をあて、頬をふくらませている。

 その姿は怒っているよりも、あざとく拗ねているように見える。


 黒髪のボブカットに吊り上がった目。

 スレンダーな体型で、すらっと伸びた脚がパンツスタイルのスーツによく似合う。

 全体的に凜とした雰囲気を感じる彼女は二十歳過ぎの大学生にしか見えないが、俺の母親である。

 ちなみに、年齢は「永遠の18歳」らしい……。


「やらなくてもいいんじゃない? 小学生とかならまだしも俺、高校生だし」


 お見送りをすること自体は苦ではない。

 むしろ、それぐらいはやらせて欲しい。

 お世話になっているし、最近は暇すぎて始めた家事によって、母親の偉大さを再認識したから。

 だけど、チューは単純に恥ずかしい。


 高校生にもなって、そんなことをしているのかという恥ずかしさもあるが、精神年齢が20代半ばのおっさんにとっては嬉しさより、気恥ずかしさが勝つ。

 相手が美人であれば、なおさらだ。

 だからこそ、色々な手を使って辞めさせようとしているのだが、今の状況を見れば結果は想像できるだろう。

 

「年齢なんて、関係ない! たっくんが階段で怪我をして、記憶が無くなるよりも前。まだ私の腕の中で抱かれていた頃から、やっていることなの。それに!」


 俺に向かって指を指し、息を大きく吸った。


「インターネットで親子のチューは日常的に行われているって書いてあったわ! だから普通よ!」


 絶対にやってはいけないことだが、思いっきり殴りたくなるようなドヤ顔をしている。


「……ネットに書いてあることは、鵜呑みにしちゃダメだよ」


 インターネットは嘘が多い。だから、全てを信用してはいけない。


 そして最近、知った事実だが、この世界でもいってらっしゃいのチューを始め、母親と息子のスキンシップは当たり前でないらしい。

 インターネットの友達が教えてくれた。

 後、身近な人にも聞いたら「そんな羨ましい習慣はない」と険しい顔で否定された。


「それでも! これは親子の親睦を深めるために必要不可欠な行為。特に今日は、休日出勤!」


 昨日の今日で出勤することが決まったらしい。

 社会人は大変だとつくづく思う。


 膝を抱え、玄関の隅で小石を突いているその背中は、悲しみに満ちている。

 

「男との縁が一生ない、可哀想な上司からの出勤命令。あんな、ババアと二人で仕事するなんて、元気も活力も出ないわよ。地獄に出勤した方がマシなくらい」


 「だからこそ!」と言って、急に立ち上がった。


「だからこそ、ママが今日を元気で過ごすための大切な行為、それがいってらっしゃいのチュー! これはいわば、おまじない。家内安全、無病息災、交通安全、それらも兼ね備えた万能なおまじないなのよ!」


 両手を広げ、天を仰ぐ母さん。

 呆れる息子。


――なんか、人生楽しそうだね。母さん……


 この人はその場のノリとテンションで生きている。

 数週間、ひとつ屋根の下で暮らして、わかったことだ。


「極めつけにママは嘘を言ったことがありません!」


 それを裏付けるように、また突飛な発言をしている。


――親子のスキンシップは当たり前であると、現在進行形で嘘をつかれているのですが


 まぁ、いちいち突っ込んでいるとキリがないので一旦、スルーしよう。


「これは親子の朝チューが常日頃、世界中で行われている証左。その証拠にママ、たっくんに嘘ついたことないでしょ?」

「えっ!」

「ん?」

「いや、親子は成人まで風呂に入ると吹き込まれた事が……」

「ないでしょ?」

「親子は一緒のベッドで眠るって……」

「な・い・で・しょ?」

「……」


 首を傾げて、微笑んでいる。

 その魅了されそうな笑顔は目だけが笑っていない。

 全ての光を吸収しそうなくらい、空虚で真っ黒な瞳。


――怖いよ……、母さん


「そ、そうだね。俺の母さんだったら嘘つかないよね」

「うんうん、わかってくれたんならママは嬉しいわ。だから早く、ね」


 首に腕を絡ませ、ゼロ距離まで迫ってくる。 


「んちゅ~」

「その前に、1ついいかな?」

「なに?」


 顔の前で待ったを出す。

 手で遮ったから、息がかかってむずがゆい。


「俺の母さんであれば、息子以外にも嘘をついたことがないでしょ? 隣のマミコさんに聞いてみましょう。あの人、幼なじみでしょ? きっと、あなたが私の母親だと証明してくれるはずです」


 母さんの論理で話を進めると、過去から今に至るまで俺の母親は嘘をついたことがないらしい。

 ならば、過去に嘘をついていれば、俺の母親ではないと言える。


 とてもガバガバな論理ではあるが、筋は通っているだろう。

 それに、


――「私は聖人です」みたいな顔をしてるのがムカつくから、確かめに行って、マミコさんに注意してもらおう


 母さんの暴走を止められるのはマミコさんしかいない。

 

 そう思って、ドアノブに手をかけると後ろから腰に巻きつかれた。

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