第23話 ありがとう。


「私...。小学生の頃は、走るのが嫌いだったんです...。」


「え?」


佐伯から返ってきた言葉が、思っていたものとは違い、つい変なリアクションをとってしまう。


意外だったのだ。

最初に会った時から、「走るのが楽しい。」と言っていた佐伯からこんな言葉が出るなんて。


「走るのなんてキツイし。汗もかいて気持ち悪いし。すぐ追い抜かれるし。」


「...。」


「でも、そんな私に、走りの良さを...走ることのカッコよさを教えてくれたのは、先輩...頼水先輩の走りでした。」


「...俺?」


何でここで俺の話が出てくるのだろうか。

俺が佐伯に何かを教えたことなんてほとんど無いはずなのに。


「はい...。兄と一緒に、近くの競技場に陸上を見に行ったんです。そこで、先輩の走りを見ました。」


「...。」


「とっても見入ってしまって...私、その時、知ったんです。走るのってこんなにカッコいいものなんだって...。とても憧れました。」


「...そっか...。」


何ともいえない感情に押し潰されそうになり、俺は目を伏せる。

佐伯が見ていた、という事は小学6年生位の時の事だろう。


それなら、俺が中1の時に佐伯は見にきていたという事になる。

あの時は...そう。

丁度、周りから「天才」などと囃し立てられていた時期だ。


そして、俺も勘違いしていた時期...。


「私が陸上を始めた理由も、走るというカッコよさも...楽しさも、気持ちよさも。そして辛さも、悔しさも、走るという事の在り方を教えてくれたのは、あの、先輩の走りだったんです。」


「佐伯...。」


「だから、先輩...ありがとうございます。これを、この言葉を先輩に、伝えたかったんです...。」


「...。」


俺は、やっぱりクソ野郎だ。

何にも見えちゃいなかった。


あの時の俺は、自分の走りに価値を見出したくて、周りに認めてもらいたくて、ただ走りを早くする。

その一点だけに重きを置いて、部活に励んでいた。

周りの話も聞こうともせず、心配の声なんて跳ね除けた。


結果があのザマだ。


ただただ自分のエゴを追い続けて、失敗して、その過去を見ない様に封じ込めた。


今思えば、あの時から佐伯は俺に度々話しかけにきてくれていた。

でも、俺は...佐伯を見ようともせず、距離をとった。

佐伯が距離をとっていたのではなく、本当に距離をとっていたのは俺だったのだ。


そうだ。

今も昔も変わっていない。

佐伯の厚意を、言葉を、自分の過去を思い出したくないから、遮った。


「俺は...。」


「...えっ?!先輩...。どうして...泣いて...。」


「...?」


「...先輩?」


「ッ...!泣いてない...。」


気づかない内に勝手に涙が出ていた。

自分に対する怒り、自分の走りを見ていてくれた佐伯に対する何ともいえない感情。


それらが織り混ざって、俺の視界を歪ませる。


佐伯に泣いているダサい所なんて見せたくない為、俺は佐伯とは反対の方に勢い良く顔を逸らす。


「...いや、泣いてる...。」


「泣いてない...!」


「...ふふっ。」


「な、何だよ。」


「本当は言わないつもりだったんですけど...先輩が泣いちゃったんで、もう言っちゃいます。」


「...?」


「私、見てたんですよ...?先輩が部活が終わっても、自主練してた所...。」


「...?!何で知って...!!」


「...えーと、内緒です。」


そこまで、佐伯は俺を見てくれていた。

それだけで、俺は散々蝕んでいたはずの胸のしこりが取れた様に感じた。


「...はぁ...!もぅ...なんて言えば良いか分からない...わ。」


「...。」


「さっきは、ごめんな...。」


「...気にして...ませ...んよ。」


「佐伯...ありがと...な。こんな俺を見ててくれて。本当に...ありがとう。」


ただただ、ありがとう。とそう佐伯に伝えたかった。

佐伯もこんな気持ちだったのだろうか?


ふと、佐伯の方に、涙目ながら視線を戻す。

佐伯は下を向いたまま、黙っていた。


「佐伯...?」


「...。」


「もぅ...もうッ!!」


そう言って、バッと顔を上にあげたかと思いきや、そのまま俺にダイブする様に伸し掛かってきた。


「お、おぃ!落ちッ...!」


俺がそう言い切る前に、俺たちの体はバシャアンという効果音と共に、水の中へと落ちる。


「グブブッ。」


冷たい。

さっきまで湿っていたはずの熱かった体が、一気に冷やされる。


「ブハッ!おい!佐伯...。」


俺が佐伯を抱き抱えるように、一緒に水中の中から浮き上がると、佐伯も「ブハッ」と止めていた息を吐く。


「もぅ...!バカッ!先輩のバカ!!」


「おい、水を...!グブェ...。」


そうやって、俺に水をかけてくる佐伯。

その顔は、怒りと笑い、その矛盾した感情を2つとも表しているような、そんな顔だった。


「ちょっと、2人共!何してんの?!大丈夫?!」


佐伯が俺の目の前で暴れていると、そのすぐ近くで、心配の声を俺達にかけてくる都治巳杏里と澪がいた。


「いや、佐伯が...グブェ...冷た!!」


「先輩が...悪いんですよ!」


どうやら、この様子では後、数分は終わりそうにない。


「早く、上がるぞ!」


「いやです!!」


「はぁ...もう、本当に何してんのよ...!」


「フフッ、バカじゃん。」


呆れた顔で俺達を見る都治巳杏里と、バカにして笑う澪。


この2人のいつも通り感も、佐伯の不貞腐れている姿も、この空気間が凄まじく心地良い、とただただ、そう感じた。

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