卒業の夜
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卒業の夜
重苦しい夢を破ったのは、携帯電話の着信音だった。
「おう、寝てた? よかった、電話して。今日遅れるなよ」
シャワーを浴びて大学に行く準備をする。卒業式に備えてスーツを着る。かったるいが仕方がない。グレーの三つボタンのスーツは就職活動のために購入したものだった。
外は曇天だが、天気予報によると天気は一日中持つとのことだった。三月半ばの今日、まだ暖かいとは言えないが、康平はコートを着なかった。というのは、そもそも適切なものを持っていなかったためである。
電車で大学へと向かう。大学は、多摩丘陵の自然の中にある。立地は、学生からしたら不便というほかない。電車は一時間に三本しかなく、乗り遅れると二〇分も待たなければならなかった。最寄り駅に着くと今度は急な坂道をおよそ一五分にわたり歩くことになる。すでに通学だけで、フラストレーションがたまったが、必ずしも誰もがそうとは限らないのではないか、と康平は思った。つまり、学業にもっとやる気があれば、通学の道のりも苦でなかったかもしれない、と。康平には学業面での達成などないに等しかった。そういうわけで、大学卒業は康平にとって達成感とは程遠いものだった。解放感はあったが、不安のほうが大きかった。就活を早々に諦めており、フリーターが既定路線であるためである。そこに後悔はなかった。そうした態度には、
面接に行くときも、いつ死ぬかわからないのに、スーツを着て、毎朝満員電車に揺られる生活が望みかという声が聞こえた。康平はそうした声に耳を閉ざしていたが、日々我慢し、「御社」、「御社」と唱えて、必死になって会社に受け入れられようとする態度がある瞬間に決定的に覆されたのだった。それは就活で電車に揺られている最中、どこか王者の風格を漂わせながら、だらしなく座っている薄汚れた格好をした無精髭の若い男に共感を覚えたときだった。それから、康平は自分の声に従い、就活に熱心な周りに背いて、いわば自堕落な生活を送った。
しかし、それは、決して誇れることではないことを自覚していた。だから、
郁子。今日の空のようなパッとしない大学生活の中で唯一の光、それが郁子だった。去年の夏の暮れに人生で二回目のクラブ出撃で出会った二十歳の短大生。その日、康平は一緒に行く予定だった友達からドタキャンされたが、どうしても行きたくて一人で夜中の電車に乗って渋谷に繰り出したのだった。
表参道から徒歩ですぐのビルの地下にあるクラブは、深夜〇時前からかなりの混み具合だった。康平は一人で来たことに心細さを感じていたが、興奮が勝った。重低音が響き、ミラーボールに当たるライトが乱反射する空間にいると、根拠のない万能感が湧き上がってきた。
(俺はまだ若いんだ。何者にもなれる。就職だけが人生じゃない)
とはいえ、康平に何かビジョンがあるわけではなかった。しかし、若くて健康というだけで、万能感を抱くのに十分であるように思えた。
クラブに来てから二時間が経とうとしていた頃、康平は眠気のピークを迎えていた。ダンスフロアの壁に設えてある腰掛けに座っていたが、爆音にさらされながらも寝落ちしそうだった。そんなとき、康平の目の前に黒のノースリーブのワンピースの女の子が現れた。康平はその子が踊る様子に、華奢な白い手足に見惚れていたが、その子は急に康平の方に向き直り、手を差し伸べた。
「踊ろうよ!」
彼女は確かにそう言った。康平はその言葉に目が覚めた。熱いものが体中を駆け巡った。
康平はその子と踊りながら、彼女が振りまくフレグランスの香りやウェーブのかかったロングヘアに魅了された。暗闇の中に咲く彼女の笑顔は幸福の先触れに思えた。彼女がドリンクを飲み干すと、康平は彼女の耳元で声を上げた。
「何か飲まない? 奢るよ!」
二人はバーフロアに行った。そこは、明るめの照明で、アンビエント系の音楽が適度な音量で流れており、話しやすい環境だった。
バーカウンターでそれぞれのドリンクを片手に乾杯した。改めて相手を見ると、自分と同世代に見えた。今日は友達と二人で来ているが、その友達はナンパされた男といい感じになっているという。お互いに名前を名乗り、身分を明かした。郁子は短大生で来年卒業だという。康平が大学四年であることを告げると、
「じゃあ、就活終わった? わたしは何とか希望のアパレル業界に決まったよ」
康平は諦めたというのはどこか間が悪く、とっさに「中小の広告代理店に決まった」と答えた。
「よかったね。この不景気に」
郁子がそう言って笑いかけると、康平も釣られた。それからよく行くクラブのことや住んでいる場所のことを話し、メアドと電話番号を交換してから、フロアに戻った。
フロアで郁子は自分から離れ、友達と合流した。康平はそのことにどこか安心した。就職のことで嘘をついたのが後ろめたく、テンションが下がっていたのだった。
康平はもやもやした気持ちで踊っていたが、やがて郁子が顔を近づけて話しかけてきた。
「わたしたち別のクラブ行くから、またね~」
康平はその態度に気をよくした。
康平は帰りの電車の中でさっそく郁子にメールを送った。
次の週末に最初のデートをして、長袖が相応しい季節になってからの吉祥寺での二度目のデートの日、飲んだ後、郁子のアパートに行き、彼女と同衾したのだった。
康平にとっては画期的な日だった。女性の身体はピンサロで知っていたが、セックスは初めてだったから。それ以来、康平の生活は一変した。郁子と会う週末が康平の生活の中心になった。しかし、郁子は卒業制作が忙しいとのことで、必ずしも毎週は会ってくれなかった。康平にもまた卒業研究があった。しかし、それは彼自身が必ずしも理解している内容ではなかった。ただ、教授に言われたことをやるだけでよかった。それにどんな意味があるかなど興味がなかった。
そうした康平から見たら、学業に熱心な郁子は眩しかった。郁子にはファッションデザイナーになるという目標があった。翻って俺には何があるだろうか、と康平は考えた。卒業研究さえ終えれば手に入るであろう大卒という肩書を除いては何もなかった。
郁子と交際するようになってから、康平は図らずも郁子がブログを開設しており、そこで、日常のアレコレを書いていることを知った。康平は熱心に読んでいたが(郁子にはそのことは話してなかった)、そのうち自らもブログを始めた。月に一、二本の記事を書いており、今のところ、一〇本ほどブログ記事を上げていたが、郁子とクリスマスデートをしたときのことを書いた八本目からコメントをくれる人が現れた。
それは康平にとって辛いデートになった。康平は予約したメキシコ料理レストランで食事しているとき、初めて就職先が決まっていないことを明かしたのだった。
「じゃあ、どうするのよ?」
郁子はタコスを咀嚼してからそう言ったが、その声には刺々しいものがあった。
「うん、バイトでもしながらやりたいこと見つけるさ」
「ふ~ん、でもそれは大学にいるときに見つけるもんじゃないの?」
「ああ、そうだな。本当に馬鹿だったよ、俺は」
康平は自分が専攻に熱心になれなかったこと、それで流されるままに自堕落な生活を送っていたことを認めた。その上で、郁子と出会えて付き合えたことが自分にとって、最大の達成であり、それだけで大学に入ったかいがあったと伝えた。
「……そんな、それは寂しすぎるよ」
短大生は低い声でそう言うと、相手を見据えた。その双眸には明らかな軽蔑が見て取れた。康平は何も言えず、コロナを呷った。
「考える。わたし、コウくんとのこと考える」
「考える、と言うと?」
「分からないけど、もう今までのように会わないと思う」
康平は椅子から転げ落ちそうになった。
康平は式典の会場である体育館で儀礼的なスピーチに耐えた後、研究室へ移動した。研究室では、卒業生を祝って豪勢な寿司ランチを用意してくれていた。しかし、康平には気が重い会だった。卒業生の中で進路が決まっていないのは、康平ただ一人だったから。専攻とは何ら関係のない就職先の人もいたが、そうした人たちよりも何も決まってない康平のほうがダメさ加減で上回っていた。新卒でフリーターは最悪のコースだ、何よりも親不幸だ、という人がいた。康平は自分のダメさ加減を自覚していた。会社で仕事ができる気がしなかった。かといってこれならできるというものもなかったが。
それぞれにドリンクが行き渡ると、年長の教授から卒業生一同に向けて一言の後、乾杯の音頭があった。康平は冷遇されていたので、教授と会うのは久しぶりだった。教授からしたら、本当は自分を受け入れたくなかっただろう。相互に不幸な状況である。そうした状況を乗り切り、曲がりなりにも大卒の肩書を手に入れたことは、やはり一つの勝利と言えた。
助教授が大学院進学組以外の人に今後の進路について訊いた。康平を含め四人が該当した。そのうち、物化研に相応しい就職先に決まったのは、塗料メーカーに内定した留年生の山田さんだけだった。それぞれが就職先を口にし、康平の番になった。
「えーと、ぼくは何もないです」
康平がそう言うと、沈黙があった。まだ三十代の若い助教授は、まるで聞かなかったかのように、
「皆さん、進路はそれぞれ違いますが、改めて卒業おめでとうございます! これからは、母校の名に恥じない生き方をしてください」と締めくくった。
ランチが終わると、康平は渋谷でのクラスの飲み会に備えていったん帰路に着いた。電車を待っている間に、彰宏からメールが来た。
〈俺も渋谷で同級生と飲むからよ。飲み会の後、会おうぜ〉
康平はOKの返事を送った。彰宏は留年しているので、同じく留年組の卒業生と飲むのだろう。それにしても、なぜに俺はここまであっきーと仲良くしているのか、と康平は内心驚いていた。
彰宏とは去年の夏に渋谷のビアガーデンで短期のバイトをしたときに出会ったのだった。同じ大学の同じ学科という偶然に話が弾んだ。家も同じ京王沿線で隣駅だった。だが、そうした環境面だけで、仲良くなれるというわけではない。お互いに受け入れたいと思う何かがあったのだ。その頃は、郷里の友人の死が色濃く影を落としていた。大学にも仲の良い友人などいなかったし、就活も止めたため、何一つうまく行かない大学生活だったと半ば諦めていたところだった。忙しくバイトでもしないと首を吊るのではないかと思えたほどだった。
彰宏の人懐っこいところやおしゃれなところは弘樹を彷彿とさせた。彰宏は康平のことを「こーたん」と呼ぶようになり、康平もまた彰宏のことを「あっきー」と呼んだ。康平は彰宏に誘われて、渋谷・原宿の服屋に一緒に行った(その中のとある店舗で康平は半袖シャツと短パンを買った)。何軒かショップをはしごした後、カフェでお茶しているときに、女関係に話が及んだ。康平は三年の夏にバイト先のファミレスで、同じくバイトしていた女子大生に交際を申し込んで、断られたことがあった。そのことで落ち込んで、バイトを辞めていた。それ以来、女関係は何もなかったが、就活を止めた今、ますます女ができる気がしなくなっていた。康平がそうしたことを話すと、彰宏は嘲るように言った。
「真面目だな。そんなこと気にしなくていいのに。セックスの季節だろ今は。今度クラブ行こうぜ」
「クラブ? ハードル高いな。どんな服着ていけばいいのか分からない」
彰宏は何かを放り投げるように片手を動かす派手なジェスチャーをすると、「服なんて何だっていいんだよ。今日買った服でいいだろ」と吐き捨てた。
康平はPCの電源を入れると、寝る前に書いた自分のブログ記事にアクセスした。
「卒業」というタイトルのその記事は、大学生活を総括した上で、郁子との出会いがいかに貴重だったかを語り、郁子との関係修復に向けて勝負に出ることを宣言するものだった。康平は郁子のブログ記事から彼女もまた今日卒業式を迎えること、今夜クラブに行く予定であることを知っていた。どのクラブかは分からなかったが、康平は「いつものクラブ」という表現からエートスである可能性が高いと踏んでいた。
またしてもブログ記事にコメントが付いていた。前にコメントした人と同じ人だった。
〈グッドラック!〉
TKと名乗る人は正午近くにそうコメントしていた。康平は律儀にもコメントに返信した。
渋谷の雑踏を縫って、宇田川町のビルの五階にある居酒屋へ入ったときは午後七時近くだった。
個室に入ると、すでにメンツの大半は席に着いていた。康平は空いている席に着いた。正面には、三年生の頃、実験でペアになった浅井さんがいた。遅刻やら不手際やらで迷惑をかけっぱなしだった。康平はそのことに言及して、謝った。
浅井さんは、気にしていない旨の返事をしてから言った。
「それより、なんか痩せたみたいだけど、大丈夫?」
「そうかな。体重測ってないから分からないな」
「何か心配事でもあるの?」
浅井さんは、面倒見がいいのである。だからこそ、実験でも自分のダメさ加減に匙を投げずにいてくれたのだと康平は考えていた。
「なくもないけど、一人で抱え込んでるわけではないから」
「そうなの? だれか仲いい人いたっけ?」
康平はブログのことを考えていたが、そのことを話すつもりはなかった。
「川井さんっているじゃない。留年生の。去年の夏、バイト先で知り合って、よく話すようになった」
「川井さん? そんな人いたっけ? 特徴は?」
康平は彰宏の外見について話したが、浅井さんは分からず、隣の平田さんに訊いたが、彼女も知らなかった。
飲み会がちょうどお開きになる頃、あっきーからメールがあった。
居酒屋から出ると、幹事は二次会に行く人を募ったが、康平は一人で彰宏と待ち合わせ場所の店に向かった。
道玄坂の雑居ビルの地下一階にあるバーに入ると、カウンターに彰宏がいた。ここはビアガーデンでバイトしていたときからよく彰宏と飲んでいたバーだった。L字型のカウンターにテーブル席が二つほどの五〇代のマスター一人で経営してる小さな店である。ジャンルとしては、カジュアルバーだったが、バックバーを照らす緑色の間接照明やシャンデリアの照明などの凝ったインテリアにより、よくあるバーとは一線を画す店になっていた。音楽は、主に洋楽がかかっていたが、素晴らしい曲が多かった。ここで知ったアーティストはかなりの数に上った。康平が好きなgarbageもかけてくれたが、マスターの選曲した曲を聴く方が楽しかった。
康平は彰宏と同じくコロナを注文した。乾杯のとき「卒業に」と口々に言った。
「卒業おめでとう!」
マスターもコロナで乾杯に加わった。自然に卒業後の進路に話題は向かった。
「康平くん、進路は?」
「ぼくはフリーターまっしぐらです」
康平は自嘲気味に言った。
「そうなんだ。今は不景気だからね。まあ、頑張りなよ。若いんだから」
「でも、何をしたらいいのか」
「何かしら得意なことはあるでしょ?」
マスターは真顔でそう訊くと、タバコに火を点けた。康平は郁子と交際して以来タバコを止めていたが、特別な日という言い訳からタバコを無心した。
「彼には何かの才能ありそうですよね。俺も何か分からないけど」と彰宏。
「才能」とは、就活の最中から何度となく考えたことだった。才能があれば、こんなことやらなくて済むのに、とか。また、最近では、郁子をつなぎとめることもできたのに、とか。だが、今はもう気にしなくなっていた。才能は結果として見出されるものという見方があることに気付いたからだった。才能のあるなしなど気にすることにどんな意味があるのか。結局、才能があるかどうかなど本人も含めて誰にも分からないのではないか。康平はそう言う見方に傾いていた。それはしかし、開き直りに基づいた見方かもしれなかったが。
「実は俺、ブログ書いてるんです」
康平はとうとう告白した。
「ブログね。今流行ってるよね」
マスターはそう言って、タバコの煙をくゆらせた。
「ぼくにとって、大学生活で何よりも熱心に取り組んでいることです。すべては、彼女と知り合ったことが起点なんです」
「郁子ちゃんだっけ。どうなったの? あれから」
「どうもなってないです。だけど、これから彼女に会いに行く予定です」
康平は彼女も今日卒業式で、クラブに行く予定であることを話した。
「そうか。それはチャンスだな。幸運を祈る。青春だね。羨ましいよ」
「ぼくから見たら、マスターが羨ましいですけど」
「えっ? なんで?」
「その歳まで生きているから」
それから議論になった。若さが羨ましいとマスターは言ったが、康平にしてみれば、結婚して自分の店を構えていることが羨ましかった。就職も女関係も何一つ達成できていないことに若い男は負い目を感じていた。
「俺の歳になれば、きっと俺の気持ちも分かると思うよ。結局、生物としての寿命のせいだよね。君の年頃では死ぬことなんて考えないだろうけど、俺にとって死の影は身近なものだからね」
「一般論としては分かりますけど、ぼくにとっては死は遠いことではないです」
バーを出る頃には、終電の時間を過ぎていた。二人は道玄坂のネットカフェに入った。康平は午前一時頃、青山のクラブに向かった。
地下にあるクラブまでの螺旋階段を降りているときから、漏れ聞こえる重低音にテンションが上がった。クラブに入ると、フロアは人でごった返していた。康平はドリンクを注文すると、フロアに向かった。酒と音楽と照明が織りなすハーモニー。これ以上の楽園があるだろうか? ある。今、この瞬間恋人がいたら最高なのに、と康平は考えた。郁子と見つめ合いながらのダンス、そしてキス。そのとき、至上の楽園が訪れるだろう。
そんなとき、康平が夢見ていた形象が視界に飛び込んできた。
(やはり来ていたのか、郁子)
郁子はDJブースの前で踊っていた。その踊り方、特に腰の動きに康平は魅せられた。男は人混みをかき分けて進み、女の後ろにつけた。手を伸ばせば触れられるほどの距離に来ていた。今日の郁子は黒のニットワンピースというかなりドレッシーな装いだった。ニット素材がなぞる下半身のシルエットにそそられた。康平は真後ろではなく、間に人を一人挟んで、斜め後ろから郁子を見ていた。
郁子が眼の前にいるという現実を前にして、ジントニックも照明もテクノ音楽ももう五感を刺激しなくなった。思い描いていたシナリオになったが、いざ郁子に対して行動に出る段になると、そうしなくてもよい状況――つまり、彼女に彼氏がいること――を想定せずにはいられなかった。
しばらく郁子を観察していたが、彼女が話したのは、友達と思しき同世代の女性一人だった。それならば、と康平は腹をくくった。
康平が行動に出たのは、郁子がドリンクの列に並んだタイミングだった。康平は後ろから女の肩を叩いた。郁子が振り向くと、ドレスの大きく開いたデコルテに視線を奪われた。郁子が康平を認識すると、目を丸くしたが、すぐに笑顔を見せた。
「あれ、来てたの?」
康平は自分も卒業式だったことを話した。
「そうなんだ。一人で来てるの?」
「そうだよ。君に会えるかと思って」
「……ああ、そう」
「ドリンク、奢らせてよ」
「うん、ありがと。じゃあ、わたし、ウォッカ・トニック」
ドリンクを待っている時間が手持ち無沙汰だった。恋人同士だったら、彼女の手を握ったり、身体に触れたりしていただろうが、それができないのが辛かった。
ドリンク片手にカウンターの空いているスペースに来た。図らずも最初に彼女と出会ったときと同じシチュエーションだった。乾杯のとき、「卒業に!」とお互いに口にした。康平はこのシチュエーションに舞い上がっていた。
(舞台は整った。後は俺次第だ)
「相変わらずキレイだね」
康平は軽くジャブを放った。
「ハハハ、そう? 嬉しい。ありがと」
「あの日と同じだね。ぼくらが出会った日と」
「ああ、そうだね」
「俺は君と出会えて救われた気がしたよ。生きててよかったと思った」
「大げさね。あれからどう? 就職先はどうなった?」
郁子はそう言って、康平の目を覗き込んだ。郁子と目を合わせると、ヒタヒタと愛おしさがこみ上げてきた。キスできないことがもどかしかった。
「変わりないよ。決まってない。だけど、あれから俺は変わったんだ。つまり、将来のビジョンができたんだ」
「へぇ〜、すごいじゃん。聞かせてほしいな」
「それも君のおかげだよ。実は俺、君のブログを読んでるんだ。それで――」
康平は郁子のブログに触発されて、自分もブログを書いていること、ブログに熱心になっていること、将来的にはブロガーとして生活することを目指していることを話した。
康平は話し終えると満足感に浸った。それこそが郁子に話したいことだったから。
「わたしのブログ読んでたんだ。なんかはずいな。わたしも康平くんのブログ読みたい」
「やめたほうがいいよ。君とのことをネタにしてるから、でも、どうしてもというのなら止めないけど」
「それは迷うな〜。たぶん読むと思うけど」
郁子はそう言うと笑顔を見せた。
「だけど、それで生活というのは無理があるんじゃない?」
「そうだね。まずはブログで稼げるようになるのが目標だね」
「わたしのことをネタにして?」
「……そう、そのとおりだよ。だから、これからも俺とつながっていて欲しい。これからもネタにできるように」
「それは難しいな。わたしに言わせたら、康平くんは何も変わってないよ。夢の中に生きているというか。世間知らずというか」
世界が暗転した瞬間だった。
「それが俺を……振った理由なの?」
康平はかろうじてそう口にした。
「そうだよ。悪い?」
郁子は目を剥いた。康平は胸が苦しくなった。しかし、最後の足掻きをした。
「……だけど、こうしてまた出会った。そこに運命的なものを感じないのか?」
「ハハハ、『運命的』ときたか。わたしのブログ読んでたら、そりゃあここに来るってわかるでしょう」
「はっきりとここに来るとは書いてなかったでしょう」
「そうだとしても――」
そのとき小柄な女性が郁子に話しかけてきた。
「知り合い?」と彼女は郁子に訊いた。
「まあね。昔の知り合いというか……。もう話は終わったから行こっか」
郁子はそう言うと、男に目配せすることなく二人でフロアに向かった。康平は一人で暗澹とした気持ちでカウンターで飲んでいた。一瞬見えた光も潰えた。「昔の知り合い」となった今は。郁子の眼差しや香りに未来永劫あずかれないのだと悟った。康平は残りのウォッカ・トニックを飲み干すと、クラブから出た。
宇田川町にあるビルの屋上に登ると、冷たい夜風が頬をなぜた。ここは以前、ビアガーデンでバイトしていたときに、彰宏に教えてもらった場所だった。六〇年代に建てられた取り壊し予定の五階建てのビルである。このビルは、外階段から屋上に登れた。真っ暗の屋上に一人で来るのは初めてだった。一人でいると心細さに慄いた。手すりでガードされた縁まで来ると深夜でも人通りのある渋谷の街が見渡せる。
スクラップアンドビルドの街、渋谷。たぶん日本で一番新陳代謝の激しい街ではないだろうか? まるで意志のある生き物のように人々の欲望に適応しようとしているかのようだ。
毎年、街灯に群がる蛾のように大勢の地方出身者が渋谷に引き寄せられる。かつての自分のように。そのときは、自分がこの街の中で、大きくなれる気がした。田舎では決してなし得ない成長を遂げられる、と。しかし、この四年間で何か達成したか? 否、学業面でも女関係の面でも何もない。せめて女とつながることができれば、まだ辛い現実も耐えられる気がしたが……。
康平はガードを乗り越えた。眼下のアスファルトまで二〇メートル以上はあるだろう。康平は自殺した弘樹のことを思った。
(俺も弘樹のようにひと思いに)
しかし、恐怖で足が震え、とても飛べそうになかった。康平がガードを逆に乗り越えると、外階段のところに人影が見えた。康平は一瞬叫びそうになった。人影はこちらに向かってきた。康平はその場にへたり込んだ。
「何やってんだよ。こんなところで」
その声には聞き覚えがあった。康平が上を見上げると、彰宏がいた。そうだ、忘れていた。俺にも友達がいたんだった。
「俺にはできなかったよ。友達のように一線を越えることは」
「できないよ。お前には。バカだな」
二人でいつかのようにガードにもたれかかって、缶ビールを飲んだ。彰宏は康平のブログを読んでいることを話した。コメントの主も彼だった。
「そうか。君だったのか。今日も俺のことをつけてたの?」
「そうも言えるか。とにかく、すべてお見通しだよ」
「……君は誰なんだ?」
「俺はこーたんの良き友人だった」
「友人『だった』?」
「何事にも頃合いというものがある。分かるかな。君は今さっき新しいフェーズに入ったんだ。それは過酷なものになるかもしれない。しかし、俺は応援するよ。今となってはそれしかできないから。それに、俺は君の生き方は間違ってないと思うよ。俺も生きたかったと今なら思う。叔父さんが死んだんだ。それでつい引き込まれたのかな」
「叔父さん? まさか弘樹か?」
「ああ、そうだよ。卒業おめでとう! じゃあ、俺は行くから。またいつか夢で会おう!」
康平はネットカフェのブースで目覚めた。時間は、午前五時近かった。結局、夢だったのか。しかし、携帯を開くと、郁子からメールが来ていた。
〈今日は会えてよかったよ。希望に応えられなくてゴメンね 郁子〉
康平は慌てて、彰宏のブースに行くと、ドアをノックした。ドアが開いて、出てきたのは知らないおじさんだった。
康平は一人で夜明け前の渋谷センター街を歩いた。昨夜は賑わってた街も今はクラブ帰りの若者がちらほら歩いているだけだった。そこには祭りの後といった雰囲気があった。今や何者でもない男はしんみりとした気分になり、孤独をひしひしと感じていたが、一方で活力をも感じていた。夜明け前の今、新しい朝が待ち遠しかった。(了)
卒業の夜 spin @spin
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