第1話


──


深い微睡みの中、私の視界に、見知らぬ景色が広がる。

ザルツ村ではない。緑豊かで山に囲まれているところは同じだ。

けれど、吸い込む空気は蒸した熱の塊のよう。山の向こう側の空に浮かぶ雲は、羊の雲のように分厚く、高く空を覆っている。

低い草木と剥き出しになった土の上を、私は歩く。私が歩く道の両脇には、水が並々と満たされ、金色にきらめく麦に似た植物が穂を垂れている。これは……水田だ。

私はこの植物を知っている。コメだ。水田を泳ぐ鳥は、確か合鴨だ。足元をにょろにょろと、力尽きそうに這い回る蛇は、たぶんアオダイショウだ。毒はない。

私は畦道と呼ばれる場所を、男と二人で歩いている。


『新作の出来はどう?ヨシテルおじさん。ホラーばっかり書いてるから、恋愛モノなんて難産なんじゃないの?』


記憶の中の私が問いかける。ヨシテルと呼ばれた男は、手元の紙切れをじっと見つめたまま「まあまあかな」と、気もぞぞろに返す。

ヨシテルの顔は、照りつける太陽と濃い影のせいで分からない。優しげな低い声と、見た事もない服装のお陰で、多分男だな、ということだけは分かる。

ジイワジイワ、不愉快な蝉の合唱が、遠くから山彦のように響いてくる。


『おじさんが恋愛ゲームのシナリオ作るなんて、5年前のおじさんじゃ考えられないね』

『気の迷いさ。これで売れなかったら、筆を折るつもりだよ。才能がなかった、ってね』


──そうだ。これは、「私」の記憶だ。

不意に、このノスタルジィ溢れる光景を目にし続けるうち、まるで濁流のように、記憶が押し寄せてくる。

「私」は、ザルツ村のライトではない。「私」の名前は、【萊来島ライトウヒカル】。日本という島国で生まれ育った、しがない学生であった。

これは私が高校一年生に上がった年の、夏の記憶だ。遠縁の親族が亡くなり、葬式に呼び出された、8月の真っ只中。

叔父のヨシテルは、うだつの上がらない小説家だ。昔から好き放題に色んな物語を書き、そこそこ売れたり、売れなかったりした。

節操なく自身をテレビ局に売り込み、ドラマの脚本家を手がけたり、ソーシャルゲームのシナリオライターも手がけたりした。

彼が手がけたタイトルは、数少ないファンならそらで言える程度。私はそんな叔父のファンの一人だった。

ある時、ヨシテル叔父は気でも触れたか、ある恋愛ゲームのシナリオ担当を手がけた。その作品こそ、後々に大ベストセラーとなる恋愛アドベンチャーゲーム【曙のプリンシア】シリーズである。

この年の夏は、まさに叔父がとあるゲーム会社に雇われ、曙のプリンシアの第一作目を手がけている最中であった。


『おじさん、恋愛ゲーム完成したら、絶対に遊ぶね。おじさんのお話、どれも大好きだもの』

『おや。ヒカルは恋愛ものは嫌いじゃなかったのかい』

『違うよ、興味がなかっただけ。だって、男の子も女の子も、恋愛っていうか、性的に理解できないだけ!自分自身のことだってそう。でも、おじさんと、おじさんの話は別ー!世界で一番大好き!』

『はは、ありがとう。じゃあ、ヒカルでも楽しめるような物語を作ろうかな』


──今思えば、そんな会話もしていたっけ。


「……そうだ……この世界って……あの、曙のプリンシアじゃん…………」


目が覚めた時、「ライト」の人格と記憶の半分は「萊来島ヒカル」と同期していた。

なんとも不思議な気持ちだ。ライトとしての人生と、ヒカルとしての人生が記憶として混濁しているせいか、数時間はずっと吐き気や目眩を抑えるだけで精一杯だった。

混乱する頭を整理するためにも、私は動いた。村の炎はすっかり消え去って、ぷすぷすと小さく燃え残りが燻る以外は、静かなものだ。

私は皆を埋めることにした。幸い、私は体力だけは有り余っている。百人以上いる村人達のため、せっせと穴を掘り、一人で埋めていった。

単純作業を続けているからか、不思議と疲れも相まって、だんだんと思考が整理されていく。


「確か……そうだ。おじさんは曙のプリンシアの一作目に、私をモデルにしてくれたんだっけ……」


曙のプリンシアは、記憶しているだけで(派生作品も込みで)10作品ほど存在する。

この世界はそのうちの始まりのシリーズ、つまりは無印の「曙のプリンシア」だ。

主人公のライトは、15歳の誕生日に魔獣の群れによって、住んでいた村を滅ぼされる。残されたライトは失意のまま、延々と一人で村人たちの墓を掘り、全員を埋葬するのだ。

そして村が全滅した4日目に、村の全滅を知った兵隊達によって保護されるのだ。


「にしても、こんなに惨いのは、叔父さんの趣味かな。あの人、無駄に陰惨なものを描きがちだものなあ……もう少し手心をくれよ……」


黙々と墓を掘りながら、だんだんと私の心は麻痺していった。

現実逃避に近いかもしれない。知った顔を一人ずつ、土の下に埋めて見送るには、多少なり心を麻痺させなければやっていけない。

約二日かけて、私は氷室から食糧を持ってきて休憩を挟みつつ、全員を埋葬した。両親は居ないが、村人全員が私の家族であり、友人であった。

親友のベアロとナンシィは、最後に埋めた。私はベアロもナンシィも大好きだった。大人になったらどっちと結婚したい?と問われ、丸三日経っても答えが出ずに、二人に「優柔不断!」と呆れられていた頃が懐かしい。


「……そういえば、最初にベアロとナンシィ、どっちと結婚するか、って質問で、性別が決まるんだっけ?」


ふと、私は己の体を見下ろした。泥と血にまみれ、汚らしい姿。今の私は、どちらの性別でもない。胸の膨らみも、性器もない。顔だって極めて中性的だ。

曙のプリンシアでは、主人公の性別は少々特殊な扱いだ。──なにせ、常にシナリオ中で「性別可変」なのである。

試しに、ナンシィの生前の顔を思い浮かべて見た。出っ歯とそばかす、いつもほつれ気味な金髪の彼女。そうすると、私の体はややがっしりとした体つきになり、股間に重みを覚える。

今度はベアロを思い浮かべてみた。いつもゴワゴワな短い毛、濃い腕下や分厚い胸板、丸太みたいな厳つい足。私は彼の泥臭い匂いが好きだった。

すると、今度は私の体が丸みを帯びて胸が膨らみ、お尻も丸くなる。……間違いない。異性を意識すれば、私の性別はすぐに変化する。

私は常に性別を意識しないから、つとめて体は「無」の性を保ってきた。なにせ「ヒヒカル」自身が、自分の性というものを意識したことがなかったからだ。


「ううん。でも、なんで私、ライトになっちゃったんだ?」


記憶を辿れど、最後に思い出される記憶は、大学二年生……私の20歳の誕生日の時だ。

あの頃は確か、ヨシテル叔父さんと両親たちとで誕生日会を開いた。初めて酒を飲み、その美味しさに目覚めて、ぐびぐびと際限なく飲んでいた。

その先の記憶がないということは、誕生日会の時に何かがあったのだ。そして叔父の描いたゲームの物語の主人公として存在している。

まるで一昔前に流行った、異世界転生主人公みたいだ。みたいというより、実際そうなっているのだ。


「とにかく、この先はどうにかして生き残らなきゃ。村の皆の仇を討つんだ……!」


なにせ私は、15年をザルツ村で過ごした。もはや第二の故郷といってもいい。

村の皆を殺したのは、「黄昏の魔女」の勢力たちだ。私は村の皆のために、仇を討たねばならない。応報せねばならない。

ヒカルとして日本に、元の世界に帰りたいか否かなんて、今の私には興味は持てなかった。こうなったら私は、ザルツ村のライトになりきってやる。


「皆が認める救世主「プリンシア」となり、黄昏の魔女を討つ──!約束するよ、皆……私が皆の無念を必ず晴らす……!それまで、ここで見守っていて……」


墓前でそう誓った時だった。

ザルツ村の北にある森から、白い光の柱が立ち上がる。確か、伝承にある結晶の剣がある場所だ。

私は弾かれたように走り出していた。私の記憶が正しければ、主人公も同じように、光の柱に導かれ、結晶の剣の元へ向かうはず。……あれ、でも何故だったっけ。

けれど、光に呼ばれている気がして、我を忘れ駆けた。薄暗い森の中を闇雲に走っていると、

やがて、開けた場所に出た。巨大な青白い結晶の柱が、天に向かって聳え立っている。

結晶の中心には、一振の剣が光を放っていた。光の柱の光源はここだ。私は導かれるように、結晶に触れる。


「う熱ッツゥ!?熱い通り越して痛ッ!?」


刹那、手が燃えるように熱を帯びた。けれど結晶に触れた掌は、まるで粘着剤でもつけたようにべったりとへばりついて離れない。

結晶は私の掌によって徐々に溶かされていき──やがて、光輝く剣の柄に触れた。熱と激痛で気がおかしくなりそうだった。私は無我夢中で、柄を握る。刹那、光の柱は縮む代わりに、光が私へと収束していく。

……こんなイベントあったっけ。昔遊んだきりだから、正直なところ、記憶があやふやだ。

なんなら全身が燃えそうだし、思考も熱で溶けそうだ。私死ぬんじゃないのか。

私の体が光を全て吸いきると、結晶はドロドロと溶けていき、剣と私だけが残された。どっと疲労感を覚え、私はその場に片膝をつく。


「(そうだ、これ……太陽の継承、だっけ……)」


序盤の必須イベント、「太陽の継承」。太陽の聖霊という強大な存在の加護を、主人公が剣を手にすることで手に入れるのだ。

まさかこんなに痛みと疲れを伴うとは。聖霊という強大な力を得るのだから、当然の代償か。否、作り手である叔父の陵辱趣味も若干入っていそうだ。

手にした剣は、未だに私の掌を焼くように熱をはらんでいる。そのうち、剣の刃の部分が、蒸発したように消え失せた。


「わっちょ、危な……!」


全体重を剣に乗せていたので、私の体は前方に崩れ……地面に衝突する直前、何者かの腕が、私の体を抱き留めた。

恐ろしく冷たい手。真冬の寒さで冷えたものとは違う、まるで生気の熱を無理に奪ったような、底冷えする冷気が辺りを満たす。

私は腕の主を振り返り、見やった。艶やかな濡羽色の髪、凍てつく氷のような瞳。整った細い顔立ちに反して、がっしりとして男らしい体。

身に纏う青を基調とした上質な衣服は、その御身がハインバーグの王族であることを示す証。


「お前。ザルツ村の生き残りか?」

「は…………い…………」

「名前は?」

「鍛冶屋のライト……です…………」


彼の名は、ヒース・フォン・ハインツベルク。

ハインバーグ王国国王ハインツベルク家の嫡男であり──曙のプリンシアの、恋愛攻略対象キャラクターの一人である。

ヒースは周囲と私を見回し、冷たい目を再び向けてくると、私を抱き上げた。視界が急に高くなる。

何度もゲームの画面越しに見ていた整った顔が、僅か十数センチ先にある。不思議な感慨であった。紙と空想で出来た存在が、血肉を持って実在している。

本当ならこの手の冷たさに恐怖するのかもしれないけれど、生憎体の熱量が著しいためか、彼の手はとても心地よかった。


「ここには「聖霊の結晶」があった筈だが……お前、ちょっと熱すぎるな。熱でもあるのか」

「ひっへ、え、あの。と、とけちゃい、ました」

「溶けた?」

「さわったら、結晶、とけちゃいました」

「馬鹿なことを。あれは氷の類いじゃあないんだぞ。…………お前、本当に大丈夫か。死にそうだな」

「はい……あの…………手」

「手がどうした」

「つめたくて…………きもちいいです…………」


言葉がまともに出て来ない。知能が五歳児くらいまで下がっているかも。

不機嫌にヒースは眉間の皺をこれでもかと狭め、それでも足を進める。馬のいななきや足音、鎧が鳴る音が段々と近づいてくる。

兵士と思わしき青年の一人が、ヒースへと駆け寄ってきた。


「生存者ゼロ!やはりザルツ村は壊滅したものと思われます。しかし魔獣の仕業にしては、やや奇怪な点が……」

「疑うまでもなく、黄昏の魔女の仕業だ。急ぎ領主のモントレールと、父上に早馬を。この惨状を一刻も早く伝えよ」

「ハッ!」


兵士は早馬を出し、村を急いで離れていく。

私は心地よい腕の中に抱かれたまま、ゆっくりと意識を暗闇の中に手放していた。



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