第18話 二人は古典的な恋の初相の悩みに落ち込んでしまった

 淳一が京都に戻ってきた夜、美穂は本気で怒っている様子も無く、裸のままシーツにくるまり乍ら上機嫌にこう言った。

「でも、愉しい帰省だったんでしょう、良かったわね」

それから綺麗な肩を淳一に寄せて囁いた・

「ねえ、もう一度やろう。久し振りだもの・・・」

もとより淳一も、「タエちゃん」の件の後ろめたさを抱えつつも、愉しく積極的に美穂の求めに応じたのだった。

 

 直ぐに、九月になって大学の前期試験が始まった。四月からの総括となる三週間にも及ぶ長い一斉試験に、美穂の心は鬱積し屈託して暗く惑った。彼女は単に試験問題に回答するだけに非ず、昭和三十年代に輩出した多くの作家たちが共通的に追い求めた、この現実世界における自己存在感の獲得とその達成に、その時代と社会の背景に、美穂自身も関り、取り組み、考え、悩まなければならなかった。それは自身の在り様を問い詰める、心身を消耗し疲弊させる行為だったが、それに挑まなければ現代文学史を研究する意味が無いことのように彼女には思われた。

美穂は、試験の無い日には、淳一に逢って身も心も癒されたいと図書館の閲覧室へ通った、が、彼は姿を見せなかった。

 淳一も又、論文の書き上げに追われていた。古今東西の哲学論を比較検討しその評価を記述するだけでは及第にはならなかった。夏休み明けに脱稿した第一稿に対して助教授は無下に言った。

「これでは駄目だ!今まで学んだ哲学を礎にして、君がこれからどう生きるのかと言う君自身の生きる哲学が書かれていないと教授会には提出出来ないね」

「・・・・・」

「哲学の研究とは人生の研究だからね」

淳一は、二十四年間のこれまでの人生を後顧し、これからの五十年余りをどう生きるのかと言う、それまで真面に考えなかった壮大なテーマに正面から向き合わなければならなかった。彼にとっては苦行と思えるほどの行為だった。

 美穂はそんな淳一を慮って遠慮がちにメールを送った。

「今日、これから、あなたの部屋へ行っては駄目?」

淳一の返事は攣れなかった。

「悪いけど、今はそんな余裕は無いんだ。ご免・・・」

「何で、このところ、あたしの傍に居てくれないのよ!」

「君の試験と僕の論文が終わったらゆっくり逢おう、それまでお互いに我慢しなきゃ、ね」

美穂は寂しくて心も躰も震えて疼いたが、淳一の部屋へ押しかけて行くのも憚られた。独りで時間の経つのを鬱々と待つしか無かった。


 美穂と淳一の二人は気楽にのんびりと男と女の交際を愉しんでいる心算だった。つい一月前の二人は何の疑いも無く簡潔明瞭にそう言うことが出来たのだが、ベッド・タイムを共にするようになってから少し様子が変わって来ていた。それまでの軽やかな二人の間柄が些か真面目で心に纏わり付く関係に変質して来たようだった。無論、それで二人の間柄が具体的にどう変わったと言うことはなかったし、十月になって大学の後期が始まっても、相変わらず土日祝日などの休日には図書館で顔を合わせ、本を読み、愉しいベッドプレイを怠らなかった。そして、ことが終わった後、暫しの間、美穂は淳一の腕の中で美しいヌードのまま仮初めの休息に眼を閉じたし、その半ば眠り込んだ美穂の顔を眺めながら淳一も安息の気分を胸に満たした。だが、何かが少し違っていた。二人の心が一歩深くしがらみ出して、その分、互いの心を捉まえ難くなったようだった。それは、二人の関係に於いて、相手の心をしっかり掴むことが出来ないと言う、将に古典的な恋の初相の悩みに二人して落ち込んでしまったのかも知れなかった。

この先、二人の関係がどうなるのか?それは神のみぞ知る、である。

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