第16話 喉が渇き切っていた
喉が乾き切っていた。
二人は大通りに在る蕎麦屋に入ってかき氷の氷いちごを注文した。客は彼等しか居なかった。静かな店でテレビも点けていなかった。
二人は興味を惹いたことについてあれこれと語り合った。
「本殿の横に小さな細い川が流れていたでしょう、あの川の上に枝を出して咲いていた夾竹桃、あの花を見るといつも、ああ夏だなあ、って思うの、あたし」
「それには気付かなかったなぁ、俺」
「鳥居の横の狛犬の眼、うちの近所の犬に似ていたわ、とても」
「嘘だろう・・・」
「縮みのシャツとステテコの叔父さん、ひょっとして、男女神社の神主さんじゃないかしら」
「否、それは違うと思うよ」
美穂は話し続けた。
「あたし、子供の頃の初午には今でも忘れ難い思い出があるの」
「へえ~」
彼女の話は彼方此方と飛び跳ねた。
「氷いちごは、今はフラッペって言うのよ」
その氷いちごが運ばれて来た。
二人は白い雪を崩し、赤い雪に掻き混ぜ、それを口に運んだ。だが、氷水を飲みながら淳一も美穂も次第に口数が少なくなっていった。二人の脳裏には、先刻見た卑猥な踊りやエロティックなお面、縮みのシャツの老人が語った猥雑な話が鮮明に蘇えっていた。躰の奥で何かが蠢き、何かが熱く火照っていた。何かに突き動かされる気配が在った。
淳一が氷水を飲み終えた時、美穂が未だ半分ほど残っている赤い水を横に押しやりながら語り掛けた。
「ねえ・・・」
そう切り出すだけで美穂の心は溶け出しかけて来た。未体験であるにも係らず、否、未体験であるからこそイマジネーションが浮遊して、好きな男の腕の中で一糸纏わぬ心と躰を解き放って忘我する未だ見ぬ甘美な魅惑に蕩けかけたのである。
彼女の声の調子は今までとはすっかり変わっていたが、淳一は気付かなかった。
彼は「えっ?」いう表情で美穂の顔を見た。
「ねえ、先ほどのことだけど・・・」
次にどう言おうかと美穂が迷っていると、淳一が言葉を受けた。
「うん、解かっている、解っているよ」
「?」
「うん、図書館へ戻ろう」
「バカ!」
美穂は思わず叫んだ。溶けかかった心がピンとした。
淳一はきょとんとしている。
美穂は、今度は少し小さな声で優しく言った。彼女の心はまた溶け出しかかって来た。
「そうじゃなくて・・・あなた、先ほど言ったでしょう、ほら・・・あのことだったら、あたしは良いのよ・・・」
「・・・・・」
「行きましょう、あなたの部屋へ」
淳一は驚いて美穂を見詰めた。
白く華やかな美穂の貌が照れ臭そうに微笑った。
淳一は興奮してどぎまぎしながら、大きな声で店の者に言った。
「お勘定、幾らですか?」
美穂がクスッと笑った。
蕎麦屋を出ると、日盛りの道で二人はごく自然に手を繋いだ。手を繋いで歩くのは初めてではなかったが、今は、淳一の手の中の美穂の手の、小ささも柔らかさも湿り具合も、一つ一つがこれから行うことの露わな象徴であった。
横断歩道を斜めに横切って、街を巡るように聳え立つビルの間の道を進みながら、淳一は途中で立ち止まって、呟いた。
「あぁ」
「どうしたの?」
「その辺で何か買って帰えらなくっちゃ」
「良いの、良いの」
美穂は無表情を装って答えた。
「今日は良いの」
淳一も同じ表情で頷き、二人は地下鉄の駅へ向かった。蕩けて惑う初体験を想って美穂はもう足元も定かならず、淳一に運ばれるようにして彼の部屋へ急いだ。
だが、部屋へ帰り着いた淳一が美穂を浴室へ案内し、其処に真新しいバスタオルが架けて在ることについて冗談を言ったが、美穂は笑わなかった。彼女は躰を強張らせて小声で答え、壁に寄りかかるようにして立っていた。つい先ほど迄の快活な感じはすっかり失せて、まるで別人のようになっていた。淳一は、余計なことは言わない方が良い、と自分に言い聞かせ、寝室へ入ってカーテンを引き、ベッドの傍の灯りを仄暗くして、エアコンのリモコン・スイッチを押した。
脱衣籠に入って居た新しい男物のパジャマを着て、美穂がリビングに入って来た。上衣もズボンも大き過ぎて、その為にとても幼く見えた。
「こんなにダブダブ」
「うん、とても可愛いよ」
淳一は何かもっと気の利いたことを言いたかったが、言葉が思い浮かばなかったので、寝室のドアを指差した。美穂の後姿が暗い部屋へ消えた。
シャワーを浴びた淳一がいつものパジャマを着て寝室へ入って行くと、美穂はベッドに腰掛けて居て、上衣を脱ぎかけた淳一に、まるで秘密を打ち明けるかのように言った。
「あたし、初めてなの」
「うん、僕もそうだよ」
淳一は美穂をベッドに倒して唇を押し宛てた。二人の口は何方も氷いちごの味がしたが、彼等は安い飲み物の甘さを気に懸けることなく、唾液に濡れた温かい感触だけを味わった。
淳一がパジャマのズボンを脱いでも美穂はじっとしたままだった。彼は死体を扱うように苦労して彼女の上衣を脱がせ、それから美穂のズボンを引き下ろすと、小さくて華奢なパンティが、シャワーの名残なのか、それとも汗の所為なのか、肌に貼り付くようにして残っていた。それは美穂が自分で脱いだ。
新しいシーツの上でのことは、淳一が思っていた以上にスムーズに運んだ。
二人は励まし合うようにゆっくり時間をかけて行為を進めた。
終わった後、腋臭のような、樹液のような、花粉のような匂いに包まれながら、暫くして、
美穂はその熱い乳、粘り気に富む粥に右手の指先でちょっと触れ、忽ち、事情を理解した。
彼女は徐にティッシュ・ペーパーで秘処を拭き取り、白い尻を振って浴室に駆け込んで行
った。
翌日の朝、淳一はいつもの時刻に図書館の閲覧室にやって来て、本を読み始めた。昨夜はあれから二人でスパゲティを食べに行って駅で別れたのだが、翌日のことは何も話し合わなかったので、今日も美穂が来るかどうかは判らなかった。彼は心待ちにしたが、十二時になっても彼女は姿を見せなかった。彼は独りで昼食を摂り、一人で散歩して、再び閲覧室へ戻った。
暫くすると、そっと美穂が現れた。紫と緑色とオレンジ色の混じった大きな花柄のワンピースを着て、真っ赤なブレスレットをしていた。ブレスレットは淳一の見覚えのあるものだった。
二人が並んでいる前には、まるで遠慮しているかのように、誰も座らなかった。そして、二つの椅子は昨日までよりも心持ち近くなっていた。美穂が腰かける時にそうしたのだった。二人はめいめいの本を読み続けた。
随分と時間が経ってから、美穂が一枚のメモを淳一に渡した。それにはこう書かれていた。
「こんな風にしているのも愉しいけど、昨夜も素晴らしく楽しかったわね」
淳一はそれを読み、顔を赤らめて恥じらいながら思った。
そんなにあからさまに歓ばなくても良いよ。此方が照れるじゃないか・・・
彼は美穂の横顔を見た。美穂も横目を使って淳一を見、顔を彼の方へ向けた。
美穂は、表面上は読書の喜びを表しつつ、実のところは淳一を又ベッドに誘っているのだった。彼はその意図に気付いているのか、いないのか、何も答えずに再び本に眼を移した。
二人は逢う度に抱き合う訳ではなかったが、抱き合いたい時には表情や仕草や短い言葉でそれと判った。
美穂は照れ臭そうに微笑みながら淳一を誘った。
「ねえ・・・」
淳一は美穂の顔を見詰めて肩を抱いた。
「なあ・・・」
互いに以心伝心・・・
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