第三章 二十路のときめき

第13話 美穂と淳一は大学の図書館で出逢った

 広い構内の一隅にある大学図書館に、最近、毎日やって来る男女の学生が居る。

整った顔立ちの女学生は色白で品がある顔なのに、何処か茶目っ気の在る感じで人目を惹いていた。何か昭和文学のことを調べている様子である。

男の方は大学院の学生なのだが、夏休みになってからは毎日通って来て女学生と並んで本を読む。

男が読むのはドイツの哲学者の部厚い大著で、女学生のそれは現代小説が多い。男は時々英訳に当たるが、主として日本語訳で読む。女学生は熱心にノートを取り、時々、参考書と突き合わせたりする。

彼女は二十一歳で国文科の三回生、男は修士課程の院生で二十四歳、お互いに「渡辺美穂」と「森村淳一」と名乗り合っていた。

 

 二人が初めて出逢ったのは新学期の慌しさも一段落した黄金週間の初日だった。

淳一が美穂と同じテーブルの斜め向いに腰を降ろした。茶色い横長の大きなテーブルの端だった。

淳一は地味な顔立ちで分厚い眼鏡をかけていた。その所為か、美穂には淳一がかなりの勉強熱心に見えた。美穂はチラッと淳一を見て、はにかむ様な笑顔を見せてから、また自分の勉強に戻った。淳一は自分が学習する本を開いたが、それは哲学に関する著名な論文だった。淳一がちらちらと美穂の方を見て判ったのは、彼女が読んでいるのは日本の現代小説の沿革と歴史に関する本のようだった。美穂は時々その本から目を挙げてはノートに何かを書き込み、それをまた別の参考書の内容と付き合わせていた。

淳一は自分の本に集中して、硬くて長い文章で書かれた難解な内容をしっかり把握しようと努めたが、美穂のことが気にかかって仕方が無く、何度も同じ個所を繰り返し読まねばならなかった。

 昼食の時間になって席を立った時、淳一は咳払いを一つして声を懸けた。

「君、日本の文学史を勉強しているんだね」

美穂は微笑って答えた。

「ええ、そうよ。現代文学史を、ね」

淳一が眼鏡を外して胸のポケットに仕舞い込んだ。眼鏡を外すと顔の感じが一変した。

美穂は見惚れて思った。

随分とイケメンじゃない!・・・

「昭和三十年代って凄い人たちを輩出したのね。大江健三郎でしょう、三島由紀夫でしょう、高橋和巳でしょう、それに、石原慎太郎、安部公房、開高健、丸谷才一、柴田翔、蒼々たるメンバーだわ」

「へえ~、そうなのか・・・」

淳一は、綺羅星の如く輝いたと言う昭和の作家を列挙されても、今一つピンと来なかった。名前は知って居てもその著書を読んだのはごく僅かしか無かった。

「彼らが、夏目漱石や芥川龍之介、太宰治や谷崎潤一郎、川端康成などの後を受け継いで戦後の文壇を牽引し担って来た訳ね」

それから二人は急速に親しくなった。

 開館三十分後の朝十時半、淳一が閲覧室のいつもの席に座って居ると、少し遅れて美穂が現れる。入口で彼を見つけた時から横に立つまで、彼女は長い距離を淳一に微笑みかけながら歩いて来て、隣の椅子に腰かける。今日はブルーのTシャツに白のキュロットで、黒と白の四角い石を繋いだネックレスをしていた。それは淳一が初めて見るものだった。開館したばかりの室内はひっそりと静かで私語は交わせない。二人は時々眼を合わせたり、時計を指して頷いたりしながら、昼まで本を読み続けた。

 十二時近くになると、館内の静けさは急に薄れ、街のざわめきが迫って来るような雰囲気になった。二人は別棟の学生食堂へ赴き、食券売場の列に並んだ。美穂は閲覧室を出た途端から喋り詰めで、淳一は時々口を挟む程度だった。彼女の話は次から次へと思いがけない話題に飛んだが、頭が悪い、という感じではなかった。淳一は、今日は特にそんな気がしたのだが、これは彼女に対する好意の所為で自分の評価が可笑しくなっているのかも知れない、と思った。これまでは、女の娘のそういう話し方を聞くと、彼はいつも、これは頭が悪い証拠だ、と思っていたのである。

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