第十五話 彼女は興味津々

「おっはよォ、マイブラザァ! 今日は朝から女性ホルモン出まくりで肌つやが今世紀最高に良い感じなんだが、お気づきいただけるかなァ!?」


 いつもどおり飯塚がテンション高めに教室に入ってくる。

 今ではクラスメイトもまったく反応しなくなってしまった。慣れってすげえ。

 飯塚は確かにいつにも増して肌がツヤツヤだった。

 なんでそんなに女性ホルモンが出まくっているかまでは訊かないでおこう。


「ん……?」


 ――と、急に飯塚の表情が変わる。


「アッくん、昨日のアレって何かヤヴァーイ感じだったの?」


 昨日のアレ?


「お昼休みの」


 ああ、アレか……。

 ヤバいと言えばヤバいのだろうか。

 確かに翠川には少し刺激が強そうな感じではあったが……。


「いや、何て言うんだろうな……まあいいや」


 それから飯塚は急にテンションを落とし、ジッと一点を見つめて押し黙ってしまった。

 何を見てるんだろう――と、その視線の先をおうと、そこには翠川がいた。

 これまでと違い、翠川は僕のほうを見ていなかった。

 机の上に何やら文庫のようなものを開いて読んでいるようだ。

 ――ん? 今、一瞬だけチラッとこっちを見たな。


「違いが分からないか、ブラザァ?」


 机の上でぐでっとなっている飯塚が、顔だけこちらに向けて言った。

 なんだなんだ? いったい何の話をしているんだ?


 けっきょく飯塚が何のことを言っているのか理解できぬまま、あっという間にお昼休みになった。

 幸いにも翠川の監視は終わりを告げたようで、もう以前ほどに視線を感じることはなくなった。

 しかし、なくなったらなくなったで寂しい気もしないではない。

 ないものねだりというやつだな。ゆらゆらゆらゆら……。


 なんにせよ、これで僕が屋上に行く理由もなくなってしまった。

 もう翠川と二人でお昼をともにすることもないのだろう。

 あるいは僕がふらっと屋上に行けば、また着いてきてくれたりするのだろうか。

 試してみたい気もするが、もしついてきてくれなかったときのショックが大きそうだからやめておこう。

 すべては泡沫の夢よ。

 僕のようなボッチ陰キャにはもったいなさすぎるひとときであった。


「感傷に浸ってるとこ悪いんだがな、ブラザァ」


 弁当箱に入った手作りサンドイッチを取り出しながら、したり顔で飯塚が言った。


「今日はシリアスモードだ。事実だけを伝えるゼ」


 おお、珍しい。この口調でシリアスになることはかなりレアなパターンだ。


「86回……この回数が示す意味が分かるか、ブラザァ」


 いや、さっぱり分からんが。


「今日、一限から今まで翠川さんがブラザァをチラ見した回数さ。だいたい約三分に一回はチラ見されてるぜ、ブラザァ」


 は? マジで言ってる? つーか、なんでそんこと数えたの?


「それはわたしの中に眠る乙女心がスタンビートしちまったからさ……まァ、油断はならねェってことだ、お互いになァ。そうだろ、ブラザァ」


 そうだろって言われてもさっぱり分からんが、まあ油断はしないでおこう。

 それに、そんなことを言われたら逆に気になってしまうではないか。

 僕は弁当を頬張りながら、ついつい翠川のほうをジーッと見つめてしまった。

 緑川は自分の席に座っていつもどおり口の中いっぱいにオカズを詰め込んでいる。

 別にこちらを気にしているような様子はないが……。


 ――あ、今こっち見たな。マジかよ。わりとガッツリ目が合ったぜ。


 翠川は慌てたように明後日の方向を向き、ガツガツとオカズを口の中に放り込んでいる。

 もう頬っぺたがリスみたいに膨れ上がってるけど、大丈夫か?


「そういうところだぜ、ブラザァ……」


 何故か溜息をつきながら、飯塚はちびちびとサンドイッチを齧っていた。


     ※


 放課後、昨日は結果的にサボってしまったので、今日は部活に勤しもうとしっかり美術室で写生に励んだ。射精ではないからして悪しからず。

 これまで人物デッサンには興味がなかったのだが、やってみると楽しいものだ。

 ダヴィデ像も今まではおちんちんにしか関心がなかったが、よく見ると筋肉の造形などが非常に美しい。おちんちんもバッコスやアポロの像に比べてよりリアルだ。

 まあ、これはレプリカの再現度によるところも多少はあるのかもしれない。

 バッコスやアポロの像はダヴィデ像に比べてマイナーだし、ダヴィデ像と言えばやはりおちんちんだ。

 ダヴィデ像のおちんちんがリアルになってしまうのは、ある意味では自明の理とも言えよう。

 気づいたとき、僕の画用紙はおちんちんのデッサンで埋め尽くされていた。

 なるほど、翠川もきっとこんな感じだったんだろうな……。


 ――と、午後六時を告げるチャイムが鳴った。


「はーい、それじゃ今日の部活はおしまーい。みんな帰るわよー」


 いつものように水附先生が早々に退室を促してくる。ぶれない人だ。


「先生、少し残ってもいいですか」


 皆が帰り支度をはじめる中、いつぞやのように翠川が言う。


「あら、今日も熱心ね。別にいいけど、ちゃんと鍵は職員室に返すのよ?」

「この前は……その、すみませんでした」


 ああ、そうか。

 あの日、僕も鍵のことはすっかり忘れていたから、けっきょく職員室に鍵の返却がされないままになっていたのか。

 その件に関しては僕にも幾ばくかの責任があるな。すまんすまん。


「アサキくんも残って」


 帰り支度をしようとする僕に、翠川が言った。

 おや、これはまたどういったことだろう。

 一瞬だけ他の部員の動きがとまったが、すぐに気にした様子もなく帰り支度を再開した。

 先生に関してはそのまま美術室を出て行ってしまった。

 あれれ、もうちょっと興味関心を持つべき事案ではないですか?


 かくして、美術室には僕と翠川の二人だけになってしまう。

 何だこれは。いったいどういう状況なんだ。


 翠川は唐突にカーテンを締めはじめると、教卓から鍵をとって内側から美術室の鍵を閉めた。

 え? 閉じ込められた? マジで何をはじめるつもりなの?


「アッ……くん、は、女の子の体に興味があるんだよね……」


 僕の顔は見ずに、翠川が呟く。

 飯塚に奪われたあのスケッチブックの話をしているのだろうか。

 というか、いよいよ怪しい雰囲気になってきた。

 つい最近、似たような雰囲気に巻き込まれた記憶があるぞ。


「わ……たしも、おちんちんにすごく興味があって……」


 翠川の指が、ブラウスのボタンにかかる。

 一つ、二つ……上から順に、ブラウスのボタンが外されていく。

 紺色地のレースのブラジャーがブラウスの隙間からチラ見えしていた。

 やべえ、やっぱりめちゃくちゃおっぱいデカいな。


「アッ、くん……も、エッチなこととか、すごく興味があるんでしょ……?」


 紅潮した顔で、翠川が僕を見つめる。

 まずい。おっぱいを拝みたい気持ちはあるが、この状況は危険だ。

 翠川の息遣いはどんどん荒くなっている。

 ボタンが一番下まで外され、ブラウスの肩がするりと落ちていく。


 ――くっ! 何たる眼福! だが、これ以上はダメだ!


 僕は翠川のもとに駆け寄ると、はだけかけたブラウスを無理やり着せ直した。


「ダメだよ、翠川さん。そういうことは、流れでやっちゃダメだ」


 翠川は放心したように目を丸くして僕を見つめている。


「僕はおっぱいが好きで、女の子の体にも興味津々だけど、でも、今ここで君とそういうことをするってことは、君を傷つけることになる」


 煩悩を押し殺すのだ! 頑張れ、僕!


「そもそも君は、僕なんかにそんなことをしちゃダメだ。君みたいに綺麗な子は、僕なんかと違ってちゃんと相手を選ぶことができる。もっとちゃんと、この人しかいないって人を見つけて、それからでも絶対に遅くはないから、それまでは自分を大事にしないとダメだ」


 しっかりと目を見て伝える。

 仮にこれが千載一遇のチャンスだったとしても、僕はこんな形は望まない。

 別に初体験に幻想を抱いているとかではなくて、単純に僕はまだ翠川のことをよく知らないのだ。

 それは翠川も同じはずで、だからこそ彼女が僕に執心する意図も分からないのだが――ともかく、僕と違って翠川は相手を選べる立場にある。

 こんな勢いで僕なんかといたしてしまうのは、彼女にとってあまりにもったいなさすぎる。


 僕はそのままブラウスのボタンもつけなおして上げると、翠川の手から鍵を取って美術室の扉を開けた。

 翠川は呆けたようにその場に立ち尽くしていた。

 このまま放っておいたら、いつまでもずっとそうしていそうだった。


 こうなってしまった責任の一端は僕にもあるし、ここまできたら最後までつきあおう。

 僕は翠川の画材や荷物を適当にまとめると、それを無理やり翠川に持たせた。

 そして、彼女の手を取って引きずるように職員室に連れて行って美術室の鍵を返し、また引きずって下駄箱のほうまで連れて行った。

 下駄箱に辿り着くころには、翠川も自分で歩く程度には意識を取り戻していた。


「ごめんね、アッくん……」


 下駄箱から自分の靴を取り出しながら、ぽつりと翠川が言った。

 そういえば、さっきから僕のことをあだ名で呼んでるな。

 飯塚が呼んでるのを聞いてたのかな? 別に好きに呼べばいいけどさ。


「いいよ。こっちこそ、なんかごめんね」


 僕も謝ると、翠川はフルフルと力なく首を振った。


 それから僕は電車で帰るという翠川を駅まで送って、それから家路についた。

 そして、ゆっくりと自転車を漕ぎながら、やっぱり流れに身を任せておけばよかったかなぁ……と、今さらながらに軽く後悔していたのであった。

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