第十四話 彼女は弱みを握った

 美術部に入部してからの約一ヶ月で、僕にもそこそこの画力がついてきた。

 とりあえず、モデルを見ながらシルエットを模写するくらいならなんとかなる。

 僕はデッサン本で基礎や要点を押さえつつ、ポーズ集を見ながらひたすらスケッチブックに裸婦画のスケッチを描いていった。

 普通のものだけでは翠川が拾ったときにただのデッサン集だと思われてしまう可能性もあるので、しっかりとエッチなポーズも描いておく。

 そのためにわざわざ『よく分かるイラスト四十八手集』を買ったのだ。

 イラスト担当が好きな絵師だったからとかではないぞ?


 ――と、そのとき、部屋の扉がノックされた。


「おにい、入ってもいい?」

「どうぞー」


 アユミだった。

 僕が夜の一人遊びに興じている可能性を考慮してノックしてくれる心優しい妹だ。

 すでに風呂に入ったあとらしく、パジャマ姿である。

 アユミが六年生のころから使っているものだが、最近はいよいよ胸まわりのサイズが合わなくなってきているのか、一部のボタンがはち切れそうになっている。

 非常に良い。できれば本当にはちきれるまでは着続けてほしいと思う。


「おかあがメロン切ったからみんなで食べようって」

「分かった。これ描き終わったら行く」

「なに描いてるの?」


 アユミが肩越しに覗き込んでくる。

 ちょうど四十八手でいう『つぶし駒掛け』の姿勢を描いているところだった。


「えっ……!? おにい、これって……」


 あ、しまった。今の僕にそういうつもりはないが、描いてる絵も資料もばっちりエッチなものである。

 中学二年生のアユミにはいくら何でも刺激が強すぎるのではなかろうか。

 せめてお兄ちゃんの責務として隠すか誤魔化すかするべきだった。


「お、おにい、ひょっとして……」


 アユミが両手で口を覆い隠すようにしながら、わなわなと震えている。

 ち、違うんだ。いや、違わないが、今は別にエッチなことをしていたわけではないんだ!

 しかし、アユミは僕の思いなど気づかず続ける。


「た、たまってる……ってことなの?」


 やめろ、そんな目で僕を見ないでくれ――ん、そんな目……?

 よく見ると、アユミは恥ずかしさからか赤面こそしているものの、その目はキラキラと輝いているように見える。好奇の光だ。


「わざわざ自分でそんなエッチな絵を描くなんて、その……ひとりでするのじゃ満足できないくらいたまっちゃってるってことだよね……?」


 上気した顔でアユミが言う。我が妹ながら、この子、大丈夫かな。

 そりゃ僕も健全な男子ですから溢れるリビドーを持て余すことはありますけど……。


「おにい……」


 僕が怪訝な目で見ていることも気づかず、アユミがその手を僕の顔に伸ばしてきた。

 その指がまるで愛撫でもするように優しく僕の頬を撫でる。

 というか、めっちゃ火照ってるけど、大丈夫か?


「アユたち、兄妹だけど……」


 何故かアユミの息遣いが荒くなっていく。おいおい……。


「お、おにいが、どうしても我慢できないんだったら……アユの手とか、口とか、大きくなったら胸とかも、自由にしてくれていいんだからね……?」


 マジか。アユミってそういうのイケるタイプの子だったんだ。 

 今の会話、親父や母上が聞いたらどう思うのかな。

 のんびりした性格の二人だから、案外、普通にオッケーだったりするのかな。


 ひとまず僕は頬を撫でるアユミの手を取ると、優しく両手で包んであげた。

 そして、椅子から立ち上がり、アユミの目を正面から見つめる。


「アユミ」

「おにい……」

「メロンを食べに行こう。卑猥な意味ではなく」

「……うん」


 アユミがこっくりと頷き、ギクシャクとした足どりで部屋を出ていく。

 まあ、今は気持ちだけ受けとっておこう。

 僕が高校を卒業するくらいになってもまったく彼女ができなくて、その上でさらに飯塚にも見捨てられたらお世話になろうかなぁ……。

 いや、さすがにそれは虫が良すぎるか。というか、兄妹だぞ。気を確かに持て。


 その後、僕が居間に降りるころにはアユミはすっかりいつものアユミに戻っていた。

 何かスイッチみたいなものがあるのだろうか。

 だとしたら、今後は迂闊にそのスイッチを押さないように気をつけよう。


     ※


 空けて翌日、僕は翠川さんがまだ登校してないことを確認してから飯塚に描き上げたスケッチブックの中身をチェックしてもらった。


「おおォ、アイボォ! 凄いじゃないか! リビドーが溢れてるよ! アイボォの中に蠢くエッチな情念が見事に具現化されてるじゃないか! センスを感じるねェ!」


 飯塚はべた褒めしてくれた。

 本当に興奮してるらしく、目の輝きがいつもと違った。


「アイボォがこんなエッチな絵を描いたと思うと、もうそれだけでジュンッてくるものがあるね……悪いけど、あとで一緒にトイレに来てもらってもいいかなァ?」


 行くわけないだろ。脳までエロ漫画に浸食されてんのか。


 ――と、思っていたのだが、本当に飯塚は一限の最中にトイレに行ってしまった。

 そして、しばらく帰ってこなかった。ま、まさかな……。


 それはそれとして、いよいよ昼休みである。

 やたら肌つやの良くなっている飯塚に見送られながら、僕はスケッチブックと弁当箱を抱えて屋上へと向かった。

 僕が屋上に向かう以上、翠川はきっとついてくるはずだ。


 いつもの場所で弁当を広げ、翠川が来るのを待つ。

 そして、いつものように少し遅れて翠川がやってくる。

 もうこうやって屋上で翠川と昼食をともにするのも何度目だろう。

 思えばこういうのって、ちょっとリア充っぽいよな?


「なにそれ」


 翠川がスケッチブックに興味を示した。よし、作戦通りだ。


「ああ、これ? 最近、人物デッサンに凝っててさ。ただ、あんまり中身を見られたくないからできるだけ持ち運ぶようにしてるんだ」


 さりげなく言うんだ。さりげなく。

 翠川の視線はスケッチブックに注がれている。興味津々といった様子だ。

 よし、バッチリだ。タイミングは今しかない。

 僕はポケットからスマホを取り出すと、電話がかかってきているふりをした。


「ごめん、飯塚から電話だ。すぐ戻るから」


 そう言って屋上を出て階段のところまで行き、すぐにまた扉の前に戻る。

 そして、扉をうっすらと開けると、隙間から翠川の様子を窺った。

 翠川はもうすでにスケッチブックの中をガン見していた。早いよ。もう少し躊躇えよ。


 ――と、そのとき、本当に飯塚からメッセージが届く。


『アッくん、あのスケッチブック、使い終わったらちょうだい』

『なんで?』

『なんでも』

『何に使うつもりだ?』

『ナニに』

『本気かよ』


 うわ、電話がかかってきた。拒否、拒否。


『わたしはいつも本気だって』

『分かったから今は待て』

『翠川さんにあげたりしないでよ』

『必死かよ』


 やべ、またかかってきた。刺激したらダメだな。やつは本気だ。


 僕はそのまま震えるスマホをポケットにしまうと、扉を開けて屋上に出た。

 翠川がギョッとしたようにスケッチブックを放り出すが、気づかないふりをする。

 気づかないふりはしつつも――もちろん、訊くのだ。


「中身、見てないよね?」

「う、うん……」


 真っ赤な顔で翠川が頷く。ちょっと刺激が強すぎたか?

 だがしかし、これだけ赤面するほどだ。『弱み』としては十分だろう。


 それから翠川は大急ぎで弁当を掻き込むと、逃げるように屋上を出て行った。

 あれれ、ひょっとしてやりすぎちゃったのかな。

 できることなら、これからも仲良くはしたいんだけどなぁ……。


 ちなみに役目を終えたスケッチブックは、容赦なく飯塚に奪われた。

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