第19話 あふれてくる音

 光月のライブが始まると、隼の歌に見切りを付けた、全体の二割の観客が戻ってきた。先程の歌なら見切りを付けられても文句は言えないと思いつつ、隼は胸の内がぐちゃっと絡まる感覚がした。

 隼と拓也と玲央は観客の最後尾に並び、光月と由宇達の登場を待つ。

 光月と並べば、由宇はどんな姿を見せるだろう。由宇はうまく弾けるだろうか。由宇は……と、隼は由宇の事ばかり考えていた。


 照明がばちっと灯される。

 光月と由宇と逢音と清久だ。ベースである光月は客席から向かって左側にいる。真ん中のマイクの前に逢音が立つ。初めに歌うのは彼女のようだ。


 由宇は向かって右側にいた。

 別に何かを考えたわけではないが、気が付けば隼は由宇に手を振っていた。気付かれなかったが、この人数なので当然だ。街の人口百人のうち、八割がここにいるだろう。隼は特に何も思わず、バンドの始動を待つ。


『あそこには何もなかったから』


 由宇にとって、俺と一緒だった頃に、何かがあっただろうかと考える。

 由宇の手が柔らかくキーボードに沈み込む。音の波を起こす。しなやかに動き回る両手が紡ぐのは、ボーカルやギターの間を埋める、曲を華やかに彩る音だ。

 隼はぞくっとした。こんな僅かな間に上手くなっている。


『あそこには何もなかったから』


 由宇の手が鍵盤を滑るように動いた。

 何もなかっただろうか? と考える。

 逢音がマイクに寄り添うように立ち、嬉しそうな顔をした。表現力が高い。


『キミと会えたから夢は続くよ』


 由宇が楽しそうに弾いている。

 由宇にとって本当に出会いたかったのは光月だ。

 間奏で、シンセサイザーがギターソロの合間を縫うように遊び回る。逢音の低いギターソロを由宇の可愛い高音のシンセサイザーが飾り付ける。

 やっぱり由宇は上手いなと、隼の手拍子が大きくなった。

 由宇は光月に会いたくてここに来た。

 だけど隼は由宇と出会った。

 二曲目も大盛況のうちに終わった。


「皆、俺の事見てる?」


 お決まりのやりとりだ。これを言ったのだから三曲目は分かった。


「見てるよー!」


 この街の八割が男性だ。野太い声が夜空に響いた。

 光月のラストの曲の定番『今夜は深い夜』だ。

 光月のベースは相変わらず素晴らしい。隼の心臓に飛び込んでくるみたいだ。すぐにギターとシンセサイザーが加わる。


 由宇のシンセサイザーの音色にびっくりした。

 この曲は以前のキーボーダーはサックスの音にしていたが、由宇は彼女独自の音にしている。

 中箱を目標としていた時、彼女の父と一騒動あった時に作っていた音色だ。

 隼と一緒にやってきた日々は確かにあった。

 この音をなんと言えばいいのだろう。曲を包む海のようでいて、星を弾くような輝きがある。


 二人で壁に上って海を見た日を思い出す。由宇に島を出る時に見た方がいいと言われた。あの時がもし夜だったなら、この音のようにいくつもの星の粒を浮かべていただろう。輝いているのに、曲を支える懐の深いその音は、星を溶かし込んだ海のようだ。


『君との夢に目を覚ます』


 光月の歌声が星の海に吹く風のように三層に響いた。

 隼は誰よりも大きな拍手をした。賞賛のためというのもあるけど、何より、何か音を出さないとたくさんの気持ちが破裂しそうだった。


 光月のところに行ったのも含めて、由宇というキーボーダーを好きだ。

 光月の事も好きだ。一生応援する。

 想いがあふれそうだ。



 ライブ会場の清掃後、拓也と玲央と軽く乾杯して、一層のアパートに帰宅したのは、二十三時だった。


 隼はテーブルの上に何も書いていない楽譜を十枚広げて置いた。そして鉛筆で五線譜に頭の中からあふれてくる音をつづる。

 音は次々と生まれてきて、鉛筆を握る手を止める暇がない。


 由宇の顔が頭に浮かぶ度、光月の声を思い出す度、音が増えていく。こぼれそうな衝動を、一つもこぼさないように、焦る心を抑えつけて丁寧に楽譜に刻んでいく。

 曲の全貌が見えてくる。まだまだ加速する。

 俺は今、生きている。隼の手は一晩止まらなかった。



 翌朝。

 目を覚まそうと朝一番で一層のカフェに向かう。ギターケースのポケットの中には夜通しで書いた楽譜を折り畳んで入れている。アメリカンコーヒーを飲み、ホットサンドを食べた後に、歌詞を考える予定だ。隼はカウンター席に座った。


「マスター、アメリカンコーヒーと梅サンド」


「元気そうだな」


 確かに、寝不足のはずなのにいつもより頭が冴えている。

 アメリカンコーヒーのあっさりした苦味を味わいつつ、梅サンドの塩気と酸味を味わう。体にも活力が満ちてくる。食べたらすぐに拓也と玲央に話しに行こう、と予定が次々と浮かぶ。


 カフェのドアチャイムが鳴った。最初、隼は振り返らなかった。これからの予定の事で頭がいっぱいだったからだ。


「隼さん」


 その声に、今後の予定は一旦脇に置かれる。


 由宇だ。


 グレーのピーコートに暖かそうな赤いロングスカートだ。四角い茶色のショルダーバッグを持っている。髪は下ろしていた。胸あたりまでの長さだ。下ろした髪は初めて見た。


「どうしたんだ?」


 普通に話しかける事が出来た自分に、隼は驚いた。昨日の爆発しそうなたくさんの想いはどうしたのだろう。

 由宇がふらふらと自信なさそうな足取りで、隼から椅子一つ分空けてカウンター席に座った。


「昨日は……その」


「ああ。ありがとう」


 由宇は少し緊張しているようだった。その姿を見ると、不思議と隼の心は穏やかになる。


「由宇が応援してくれたから、うまくいった」


 運営には中程度の成功と言われたが、今ここではどうでもいい。


「よかったです。……あの」


 由宇はためらっている様子だった。


「隼さんがいないステージは新鮮でした。もちろん悪い意味で!」


「何それ」


 うろたえる由宇と違い、隼は不安なく穏やかだ。


「隼さんとまた、一緒にやりたいです」


 由宇の誘いは早口だった。


「え?」


 隼は目を大きく開いて、何も言えなくなる。

 由宇は束の間、目を伏せた。


「隼さんの音がいいです。隼さんの音は雑みが無く綺麗なんです」


「そうなのか? 迫力がないんじゃないのか」


「そんな事ありませんよ。壁の上でギターを弾いているのを見た時から、ミュートが綺麗だと思っていました」


 そこまで見られていたのかと驚く。仕方なく声をかけられたのだと思っていた。


「綺麗な音を聴けたので、あの階段を登った甲斐がありました」


 その後、由宇は逢音の音の良さに隼の音が匹敵すると熱弁した。隼はどんどん頬が熱くなったが、音楽の話をしたために由宇はどんどん元気になっていった。


「私は隼さんにいつもうまくいってほしいです」


 由宇の祈るような眼差しを見つめ続ければ落ち着かないのに、隼は逸らす事もできなかった。


「音楽と人間性は関係ないんじゃなかったか」


 隼の語尾が少し震えた。


「はい。そのはずでした」


 彼女自身が困っているように見えた。しきりに髪を触り、姿勢をころころ変えている。


「そうか」


 由宇が急に身を乗り出し、椅子ががたっと鳴った。


「あ、私がいないと隼さんが成功しないと思ってるわけではないですよ!」


「大丈夫、分かってるって」


 実際、そうかもしれないかもな……いや、俺は今、何を思った? と、隼は一人で戸惑う。


 由宇が笑顔になった。下ろされた髪の中、小さな顔いっぱいに浮かんだ笑みが、惜しげもなく隼に向けられた。

 隼はぼんやりと由宇の顔を見て、肌が綺麗だと気が付く。肌も髪も綺麗で、茶色の瞳が澄んでいる。こんなに可愛い人だと知らなかった。


「光月さんに会いにここまで来てよかったです。隼さんと出会えたから」


 由宇の笑顔も髪も肌も、グレーのピーコートも赤いスカートも、隼の目に鮮烈に映って、息をのむ。

 広々としたカフェの中、たった椅子一つ分しか空けていない距離でこうして向き合っている事が嬉しくなった。今までは何も思っていなかった。今まではきっと、眠っていたのだと隼は理解した。


「あ、ええと」


 由宇が隼から顔を逸らす。横顔だ。耳を長い髪が隠す。この角度から見た事は今までも何度もあるはずなのに、どうして目に焼き付くのだろうか。

 由宇が少し恥ずかしそうにした。その顔さえじっと見ていたくなった。


「隼さんと一緒に演奏するための曲を作って来ました」


「俺も作ったよ」


「もしかして、隼さんもまた私と演奏したいと思ってくれたんですか?」


 ぱっと明るい顔に変わった由宇の瞳を見つめて、これからは目を逸らさないと誓った。


「そうだよ」


由宇のために作曲したと、このくらいの嘘はいいだろう。由宇は自分から聞いた癖に驚いている。隼は笑いそうになった。

 由宇がショルダーバッグから楽譜を取り出した。綺麗にクリアファイルに入れられていた。


 隼は席を立ち、カフェの玄関隣のギター・ベース置き場のケースのポケットから折り畳んでいた楽譜を取り出し、由宇の前に広げた。

 由宇の綺麗な状態の楽譜と異なり隼の楽譜は消した跡ばかりで、四つ折りにしていたため折り皺も目立つ。普段は気にしないようなそれが、少し恥ずかしくなった。

 二人の間の空席に楽譜を広げ、どちらも体をやや斜めに捻って一緒に覗き込む。

 由宇の楽譜には消し跡が一切ないどころか、ボールペンで書いている。


「一発で書いたのか?」


「はい」


 やはり凄い才能だ。この前はあんなに苦戦していたのに、一度覚えるとこうだ。


「昨日、隼さんと目が合った時に思いついた曲なんです」


 へえ、と以前の隼なら軽く返しただろう。

 隼はカウンターテーブルの下でぎゅっと手を握り、あふれそうな気持ちを一つも言葉にできず押し黙っていた。

 由宇は構わず、楽曲の説明をしていく。隼としては助かった。


「歌詞は作れませんでした。隼さんが作ってくれませんか?」


 由宇からのお願いにすぐに頷いた。


 次は隼の楽譜の説明の番だった。

 こんなに饒舌になったのは生まれて初めてだと自覚した。由宇が熱心に頷いてくれたので、隼の中でますます曲が育つ。

「歌詞は?」


「まだ」


「……では、私が考えましょうか」


「うん」


 隼は表情を抑えるので必死だった。

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