第17話 私は全てを手に入れた

 由宇は憧れの光月と並んで螺旋階段を上っている。光月は由宇に合わせてゆっくり歩いてくれるが、由宇は遠慮して、光月になるべく追い付く様に歩く。

 光月は色白で、綺麗な二重のつり目だ。真っ黒な目は輝いて、深い黒の髪には艶がある。

 小鳥遊光月のベースだけを見ていたため、彼の容姿をじっくり見たのは初めてだ。

 もしかして、いや、もしかしなくても、相当格好いいのではないかと、驚いた。

 二層の踊り場に着くと光月が振り返ってきた。


「カフェに行こう」


「はい」


 きっと、私に気を遣ってくれたのだと由宇は思った。隼を追いかけたせいで由宇は三層まで一気に上れる体力を身につけたが(元から鍛えていたとはいえ、隼のおかげ)、それを知らない男性から見ればか弱い女子に見えるのだろう。


 憧れのベーシストと一緒にカフェで飲食をするなんて、一体どんな顔をすればいいのかと、由宇は眉間に皺を寄せた。光月がこちらに振り返ったので、慌てて皺を消した。

 光月がドアを開けて先に由宇を入れてくれた。椅子に先に座らせてくれた。これは私の両親でも文句を言わないレベルだと、由宇は驚いた。


「何を頼む?」


「では、梅サンドと――」


 その時、苦笑した店員がやって来た。


「ここに梅サンドは無いんだよ」


 由宇はショックを受けて、自分がこれほど梅サンドを好きだと初めて気が付いた。


「では、プレーンのホットサンドと、あとは……」


 いつもならモカブレンド等を頼むが、ふとメニュー表のアメリカンコーヒーが目に入る。誰かがいつも飲んでいた。


「アメリカンコーヒーを」


「はい」


 光月がマスターに頼んでくれた。

 ホットサンドは一層の方がおいしいと、すぐに分かった。だけどアメリカンコーヒーの味を知る事ができたのはよかった。これをいつも飲んでいたのだ。光月が頼んだのはモンブランだった。


「まずは、君がこの島に残れてよかったよ」


「え?」


 事情を知っていたというのなら、やはり光月さんは私を助けてくれたのだろうかと、由宇の心音が高くなる。


「もしかして……でも、どうして」


 光月がにこりとした。光月本人に興味が無くても見惚れる笑みだった。


「運営の人に中箱でやってくれと頼まれたんだよ」


 確かに、光月がいきなり中箱に来るのは不自然だと、ようやく気が付いた。運営がそこまでしてくれた事、何より光月が自分のために動いてくれた事に、驚きと感動が混じり合って心がうまく動かない。


「運営の人も由宇に期待をしているんだろうね」


 モンブランの一口が大きい光月を見ながら、由宇は理解した。

 全てがうまくいったと。

 光月に憧れて父の反対を押し切り、この街に来た。光月が父を納得させた。

 そして、私は光月さんとバンドを組む。

 きっと素晴らしい事だ。


 由宇はアメリカンコーヒーを一気に飲んだ。あまり好きではない。どうしてあの人は常にこれを選ぶのかと気になった。

 光月の後に続いて三層へと歩く。口の中にアメリカンコーヒーの名残がある。


 三層の練習スタジオには、既にメンバーが集まっていた。


「ギターの逢音です」


「ドラムの清久だよ」


 逢音は由宇に静かに会釈した。清久は歯を見せてにこりとした。

 由宇はお客さんとして、皆を見る位置に立たされた。


「さっそく始めよう」


 光月の一声で、全員がいつでもスタートできる状態になった。音楽が始まる前の静かな緊張感がスタジオに満ちた。


 圧巻だった。

 由宇は泣きそうだった。

 こんな所まで上って来られたのだ。

 光月さんは本当に凄いですねと、話したい人がいるけれど。


「さあ、由宇も」


 光月に促され、ついに備え付けのシンセサイザーのキーボードに指を置く。

 弾く事が、これから組んでやっていく事への握手のようなものだった。

 弾き、奏でるごとに、向けられる視線の色と温度が変わっていくのを実感した。指は不思議なくらい滑らかに動いた。一層や二層よりも広い練習スタジオのアウェー感がどんどん減っていく。

 由宇の伴奏に乗っかるように逢音がソロを弾いてきた。すると、光月と清久もリズムを刻み出す。

 たった今会ったばかりなのにこの一体感はなんだろう。これが実力の差だというのか。


「あのさ」


 少し遠慮がちに逢音が話しかけてきた。


「ここはもう少し、強く弾いた方がいいよ」


 口調はおとなしかったが、逢音は譲らないといった顔をしていた。

 父以外に指図を受けるのは生まれて初めてだった。

 正直、複雑さがある。私はこんなにも父を師として崇めていたのだと思い知らされる。会ったばかりの、ピアニストでもない人の指示を聞かなければならないなんて。


「やってみて」


 口調だけは静かだが、ここで上なのは逢音だ。

 由宇は手首から力を込めて鍵盤を叩く。本当に合っているのか、試すためにも思い切り叩いた。そして全員で合わせた。


「よくなったね」


 光月の言葉を疑うなんてあり得ない。

 しかも、由宇自身もそう感じていた。

 逢音を見上げると、彼女は少し恥ずかしそうに明るい茶の髪を指で触った。


「逢音は音大出身だからさ」


 清久の説明に、逢音はうるさいよと言わんばかりに目を逸らした。

 だがすぐに逢音は真剣な顔で由宇を見た。


「由宇は上手だけど、バンドは一人でやるものではないからさ」


 それはもう、分かっていた。

 拓也と玲央が加入してくれて分かったのだ。

 何より、隼が教えてくれた。


「はい」


 とっくに分かっているはずなのに、何故言われるのだろう?


「もっと思い切り弾いて。周りを信じて大胆

にやっていい」


 逢音が清久に目配せすると、彼は基本のパターンで叩く。それに光月が一緒になる。


「周りの音をもっと聴いてね。楽譜通りにやらなくていいから」


 そう言って、逢音もギターを弾く。


「由宇、自由に弾いてみて」

 光月の指示で、由宇は彼ら三人の音を聴きながら即興で弾く事になった。


 しばらく続けて、休憩を取ったのは二時間後だった。

 逢音が控えめな表情ながら、有無を言わさない動作で由宇からシンセサイザーの前を奪った。

 そして、綺麗な音で弾き始める。ギタリストとは思えないくらい上手い。


「私はピアノの実力なら由宇に負けないよ」


 それは本当の事だと、すぐに分かった。


「では、なぜギターを?」


「ギターが好きだから」


 そう言って、逢音はすぐにシンセサイザーから離れた。


 由宇はシンセサイザーをじっと見つめた。

 光月の才能に惹かれてここに来たが、ベースではなくシンセサイザーを選んだのは、ピアノの腕があるからだ。

 ベースを選ぶ選択肢もあったのだ。


「はい、再開するよ」


 光月の声に全員がてきぱきと支度をする。


 光月のベースは星を浮かび上がらせる夜の闇の様に素晴らしい。一緒にやっているだけで、自分が音楽家としてさらに高みに行けたような気がする。

 ベースなら、光月のベースと共に弾けない。だから私はシンセサイザーを選んだと思いつつ、ただ弾けるから選んだだけではないかとも思う。


「由宇」


 再びの休憩時間、二人きりのタイミングで光月に急に声をかけられた。


「はい!」


 思わず返事に力が入った。


「二人で弾いてみる?」


「はい!」


 光月のベースの上に乗るのは、波の上を滑っていくみたいに気持ちよかった。楽しくて楽しくて、逢音に言われた事が少しずつ分かってくる。

 バンドは一人でやるものではない。その場その場で人と反応して、新たに生まれる物があるのだ。

 汗を拭った由宇は、完全に心が緩んでいた。


「隼さんとはもう弾かないんですか」


 光月の笑みがきつくなり、由宇は後悔した。だけど聞くのを遠慮するのもおかしなことだ。由宇は恐れず、光月を静かに見つめた。


「隼さんのギター、私は好きですよ」


「逢音の方がうまいのに?」


 光月の答えに、由宇は黙り込んだ。だけど、何でもいいから何か言い返したい。


「隼さんには隼さんの良さがあります」


「例えば?」


「音に雑味がありません」


「へえ」


 面白そうな顔をした光月を見て、彼もその事には気付いていると由宇は分かった。


「じゃあどうして俺の所に来たの?」


「それは光月さんのベースに憧れたからです」


「じゃあどうして、今になって隼を気にするの?」


 由宇は何も答えられず、ただ、光月の綺麗な顔を見ていた。


 そして、何度も演奏を繰り返す。その度に素晴らしくなっていく。

 私は全てを手に入れた。私は全てを手に入れた。由宇は繰り返し自らの頭に念じた。脳に刻みつけるように。

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