第8話 私は音楽と共に生まれた


 音楽大学に行きたくないと母に打ち明けた。


『お父さんに動画を見てもらったらいいんじゃないの?』


 母は冷静にそう言った。母は由宇より父を人としてよく知っているが、父を音楽家としてよく知るのは私の方だと由宇は自負していたので、父は動画を見もしないだろうと諦めていた。

 それでも、母に何度も言われて由宇は父の部屋のドアをノックした。


『お父さんに見てほしい物があります』


 父は楽譜から目を上げて由宇を見た。

 由宇は父をこの上なく尊敬している……音楽家としては。だが父の人を下に見るようなこの視線は大嫌いだった。

 由宇は父の部屋に入る前に、動画をすぐにでも再生できるように準備していた。

 しかし父は動画を見ようともしなかった。

 父にスマホを突き返され、由宇は私も父を突っぱねようと決意した。



 音楽都市の入島テストは由宇にとっては簡単すぎた。本当にこんなレベルの所に小鳥遊光月がいるのかと、不安になったほどだ。

 それなのに。


 隼は慣れている様子だったが、由宇は小箱のライブに心臓がばくばくしていた。レベルとしては大した事のない楽譜のはずなのに、どうしてあんなに素晴らしいと思えたのだろう。

 隼のギターのレベルがどれ程の物か、由宇は何度も測ろうとしたが、よく分からなかった。きっと私はギターを知らないから分からないのだろうと、由宇は思っていた。



 音楽都市の壁から出ると、叩きつけるような雪混じりの寒風に襲われた。高い位置で結んだサイドテールが大きく揺れる。

 雪で霞んだ視界に父の姿がある。

 最高の音楽家の一人で、大嫌いな人だ。


「何しに来たんですか!」


「今からでもこの街を出ろ」


 由宇の不安を構いもせずに結論だけを言った父に、やはりいつも通りの父だと、かえって緊張が解けた。


「ここの人にもいい音楽家はいます!」


「いい音楽は生まれながら音楽に触れてきた者にしか分からない!」


「そんな事ありません!」


「出会えたのか? 由宇を超える人と」


 由宇は言葉に詰まった。

 隼さんは私より音楽家として優れている?

 問いも、答えも残酷な物だった。


「由宇は音楽と共に生まれ、幸運にも才能を持っている。その事を忘れるな!」


 冬の空気の凍てつきで、肌が切れそうだ。


「お待ちください!」

 運営の男性が来た。父は彼に連れられていった。

 由宇は父に何も言い返せなかった。



 音楽都市に入ってうまくやれそうだと思っていたのに、父が邪魔してくるなんて。許せない。怒りの涙のはずだと由宇本人は思っているが、彼女の泣き顔は弱々しく切なかった。


 隼が時折由宇を振り返ってくれる。半ば泣きながら由宇はついていく。二人でスタジオに戻った。

 由宇は赤い顔で、たまに鼻を啜りながら、シンセサイザーの画面を必死に凝視する。未だに音作りをしている。


「このくらいにしておこう」


 隼が穏やかな声で言った。


「作るのは曲だよ。音ではない」


「もっといい音にしないと」


 生まれながら音楽に触れてきた者として、頑張らなくてはならない。隼さんだって音楽と共に生まれていれば今と違ったと、由宇は思った。なら、生まれる事ができた私は甘えてはいけないのだと。


「完璧なんてないんだから」


 由宇は隼のその言葉に俯きつつも、ふっと体が楽になったような気がした。

 不思議だ。隼は決して自分を超えていない……はずなのに。


「でも、もっと頑張りたいです」


「分かった」


 隼は床に散らばっていた楽譜を重ねて由宇に手渡した。言葉は無くてもその動作が、温かかった。


「でも、まずは曲を書いて。……俺も最後まで付き合うから」


 由宇はまずは曲を最後まで書いてから、音を作るように、やり方を変えた。

 由宇は時間をかけて曲と音を完成させた。隼は朝四時までそばにいた。


 隼はギターの練習をしたり、楽譜を見たりして、由宇が気を遣わなくていいように振る舞ってくれた。由宇はそれに気がつく事ができてよかったと思った。


 由宇にも隼を強引に誘った自覚はあるが、それも音楽のためだ。私の音楽を認めたから、隼さんはこんなに力を貸してくれるのだと、由宇は疑いなく思う。音楽と共に生まれなかった隼の分まで頑張らなくてはならない。


 幸運にも音楽の才能を持っているのなら、音楽で父を分からせるしかない。

 音楽と共に生まれた者として、決して負けない。

 ここまで協力してくれた隼さんのためにも、ここで街を出るわけにはいかないと、由宇の指先に力が入った。


 中箱のライブの準備をしている時、隼が他の中箱メンバーと小競り合いをしていたが、由宇はまったく気が付かなかった。

 私は音楽と共に生まれた。私は音楽と共に生まれた。

 そう思い続けた時、音楽と共に生まれて来なかった人達の喧騒が、急に敵になったように感じた。

 ここの人達と私は違うという思いは優越感に見せかけた孤独感だった。

 リハーサルが始まる。

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