第七話 「私にも、微笑みかけて」

「本っ当に──あなたは──っ!」


もしも、その手を離さなければ。

私は、その慟哭を聞かなかったのだろう。

紛れた人混み。もみくちゃにされて、人の中、方向すらわからずただ流されるまま。

迷子になって、運が悪ければ私はもう二度と戻ってこられなかった。


……いや。そっちの方が良かったのかもしれない、だなんて。未だにそう考えてしまう。

結局、私がそのまま帰れないままだったのなら、見ずに済んだ。

最期の記憶を、その泣き顔で埋め尽くすこと無く、見送ることができた。


──ごめんなさい。


たった一つ謝ることすらできずに、泣きじゃくっていた私。

人に当たって、その後は散々泣き腫らしている今。


何か、変われただろうか。


──ごめんなさい、お母さま。


まだ私は──その言葉を口にできないままなのだろうか。


◆ ◆ ◆


「ジュリア様、授業のお時間です」


立ち入って早々、目に入るのは麻袋に入った種。

そして、ぼんやりとした様子で窓際にもたれかかるジュリアさん。

何を眺めているのだろう──なんて、気にする暇もなしに、彼女は何事もなかったかのように、口を開いた。


「あら、もうそんな時間なのね」


リリィさんと比べると、ずっと口数少なく。

動きも然り、洗練されていて無駄がない。これぞレディと言わんばかりの気品だ。


「少しだけ待っていただけるかしら。今は紅茶を待っていて」

「は……はい……」


そして、わたしの授業にストップを掛ける理由も紅茶のためだと言うのだから実に上品だ。

一見、付け入る隙なんかどこにもないような。ともすれば、完璧なレディだった。


彼女が裏で自身の姉妹であるリリィさんに罵声を吐いているという事実さえ除けば。


昨日リリィさんの授業をしている時に知ってしまった悩み事。

それは同じ境遇の相手に対して手を差し伸べられない、というものだった。

まず、リリィさんはひたすらジュリアさんに対してはに徹している。

きっと告発しようと思えば告発できるだろうに──と思っていた矢先、その言葉はキーとなった。


つまるところ、恐らくリリィさんはジュリアさんに対して同情している。

そして、手を差し伸べようとしている。だからこそ、ずっと向き合おうとしている。

今のところはひたすらされるがまま、ではあるけれど。


この結論に達したのは、何よりもリリィさんの慈しみ深い性格によるところが大きい。

彼女の好意を前にすれば、さして穿った見方もできなかったのだ。


だからこそ、わたしは計画を若干修正することにした。

リリィさんからジュリアさんには、既に矢印が向いている。少なくとも、触れようとは思っている。

それならば、ジュリアさんからリリィさんへの矢印を向けてしまえば相思相愛というわけだ。


ことは難しいように思えて、それでも、ずっと簡単にはなった。

今度の実習を通して、リリィさんの頼もしさをアピールする。

後は計画に巻き込んでいくだけ──と、思索を巡らせていた矢先。


「ジュリアお嬢様。お茶をお持ちしました」


わたしの後ろから顔を覗かせたのは、一人のメイドだった。

年齢的には14、15才辺りだろうか。茶髪にショートカット、顔にはソバカスも少々。あまり垢抜けていない印象を受ける少女だ。

態度だって、どこかおどおどとしたような、そんな印象を受ける。

視線はなかなか合わないし、足元だってぎこちない。


もしかしたら、ここに入ってきたばかりなのかも──と。

そんなことを考えていた時だった。


「うわっ!?」


一歩、踏み出した瞬間に、つんのめった。

傾くソーサー、滑り落ちたティーカップが宙を舞う。


正面にはジュリアさん、咄嗟に腕で顔を守ろうとするけれど、かかってしまったら、確実に火傷するだろう──。

不味い、とそう思った瞬間に、事は起きた。


結果から言うと、カップの中身がジュリアさんにかかることはなかった。

なぜなら飛び散った紅茶が宙に浮いたまま、そこで止まったから。


「……間に合い、ましたか」


もう一人のメイドがわたしの後ろに立っていた。

麻色の髪にロングヘア、顔立ちはかなり大人びている。二十歳近そうだ。

身を包むメイド服から察するに、彼女もまたメイドなのだろう。確か、初めてここに来た時に出迎えてくれた中にいたはず。先程の少女メイドとは違って、相当に落ち着いた佇まいだ。

どうやら彼女がたった今魔法で紅茶を操作した張本人らしかった。


「……ジュリア様、この度はニーナが申し訳ありませんでした。私、ソフィーも責任を負いますので、どうか寛大な──」


どうやら、少女メイドはニーナさんと言うらしい。そして、今魔法を使ったのはソフィーさん。

ソフィーさんの礼と共に、紅茶を包んでいた魔力が解かれ、床を濡らす。

ニーナさんが即座に駆け寄って、それを拭き始めた。


使用人という共通項、先輩後輩の関係性で、元々は義務的に責任という枷で縛り付けられた関係性、それでも、一緒に過ごしてきた日々は二人の間に──なんて。度が過ぎた妄想は毒だ。

普通に後輩が失敗したからそれをカバーしに来ただけ。そうに決まっている。

常に冷静であれ、と。そうやって王立アカデミーでも教わってきたはず、落ち着けわたし。


「え? ああ……そうね。むしろ、助けてくれてありがとう。行って大丈夫よ」

「……寛大なはからいに感謝いたします」


綺麗な礼をするソフィーさんに釣られてか、今まであたふたと拭き掃除をしていたニーナさんも頭を下げる。その様子はどこか初々しい。

一通り謝罪が済んだ後、ソフィーさんがニーナさんを伴って出ていった、その折。


「ごめんなさい、ソフィーさん。あたしのせいで……」

「……別に良いわよ。ただ、あなたの落ち着かなさには本当に辟易とさせられるわ。そうね、いっそ──私があなたのお世話をしてあげたいぐらいなのだけれど」


廊下の方から聞こえてきた会話は、あまりにも高い破壊力だった。

これは流石にわたしの妄想で留めておくには勿体ないぐらいに咲き誇っている。

今すぐにでも観察に行きたい──とばかりに急く足を無理やり押し留めて、ジュリアさんに向き直る。


「……ところで、ジュリア様。一つ、お話がありまして」

「何かしら」


冷静に、冷静に。今はやるべきことがあるのだ。それを振りほどいて行ってしまってはいけない。

あちらの百合を立てればこちらが立たず、なのだから。深呼吸、深呼吸。


「今のような状況も、魔法があれば危険を回避することができますよね?」

「……まあ、そう、ね……」


なぜだか、ジュリアさんは顔を背けた。

きっと、彼女なりに今の一件で気になるところでもあったのだろう。


「ですから、リリィさんと一緒に実習的要素を絡めた合同授業を行おうと思います」

「……合同、授業……ね」


リリィさんとの合同授業。

そこを強調したからか、唇に指先を当て、ジュリアさんは考え込むような仕草を見せる。

この間は可愛い妹だと言い切っていたけれど、それが本心から来るものだとは到底思えない。何せ、それでは行動と結びつかないのだから。

だからこそ、その真意を晒して欲しい、というのも一因としてはあるのだ。


「まあいいわ。わかったから、早いところ今日の授業を始めてちょうだい」


言い切ってしまうと、ジュリアさんは教本を広げた。

今日わかったこととして、ジュリアさんは魔法があまり得意ではないらしい。

それなら、尚更リリィさんの頼もしさが際立つはず。

ジュリアさんだって計画には同意してくれた。これなら上手くいくはず。


思わずガッツポーズしてしまいそうになるのを抑えて、授業に集中する。


上手くいっている。上手くいっているのだ、と。

そう、自分に言い聞かせながら。


◆ ◆ ◆


土に植えていなければ、芽が出るわけもなく。

生きているのかどうかすらわからない種は、今日も麻袋に詰められたまま。


「本当に、わからない子ね」


一粒、ツンと触れながら口にした言葉は、誰に向けたものだったろう。

リリィに? ルーシャに? ──もしかしたら、二人共かもしれない。


ただ、事実として存在しているのは多分、二人共私より優れている、ということだ。

この間見てしまったリリィの火魔法が脳裏をよぎる。

素人の私でもわかる。あの花のような魔法は、間違いなく高度に制御されていたものだった。

そして、ルーシャ。彼女は”知恵の寵児”だ。授業でも、私の知らないことをたくさん教えてくれる。


それに比べて私とくれば、今日の紅茶の一件にしろ、自分の身に降りかかろうとした災難を自分でどうにかすることすらできない。


魔法も下手なら頭だってそこまで良くない。

もっと一人で何とかできる子ならもっと、お母さまは微笑みかけてくれたのだろうか。


「……なんて」


隣に置いた櫛に触れる。

確か、これを買ってもらった直後だ。私が迷子になったのは。


収穫祭には苦い思い出を残してきてしまったけれど。

それならきっと、この屋敷だって今は変わらない。

突きつけられる現実が、私をいらない子だと言うから。


リリィの方が愛想が良くて、魔法だって使えて、要領が良くて──。


合同授業は近いけれど、だとしても。


私にできることなんて、あるのだろうか。

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