第15話 もしもあなたが死ぬなら

 シェリンガム副隊長で少し遊んだ後は、厨房に寄ってから国王の執務室に戻る。城の内部は王女に呼ばれてちょくちょく来ていたので大体分かっている。


 案の定、明かりもつけずに彼女は輝く金髪を惜しげもなくカーペットに広げ手紙を胸に抱いたまま目を閉じていた。


 可哀想に。信じて愛した家族に裏切られてこんなになってしまって。


 一瞬だけ迷いが生じたものの、明かりをつけてから彼女の体を抱え上げてソファに寝かせる。自分のジャケットを彼女にかけた。


「ジスラン、か」


 せっかく彼女に触れる時に手が震えなかったのに、彼女に己の名を呼ばれただけで全身が震えそうになった。少し考えれば彼女が眠っていなかったことくらい分かる。戦場に身を置いていたのだ、私の気配くらいすぐに感じただろう。


 それでいて私に抱き上げられても抵抗しなかったことに、また震えがきそうになった。それは彼女の信頼なのか、諦めなのか。


 私らしくない、明らかに調子に乗っている。彼女に近づきすぎてしまった。彼女の目にも映らず、存在さえ認識されずに満足していたはずなのに。

 彼女が取るに足らない私のような存在を覚えていてくださったから。それで、調子に乗ってしまった。彼女が私の存在を認識する喜びを、名前を呼ばれる歓喜を知ってしまったから。


 動揺を悟られないように、浅く呼吸する。


「何か召し上がりますか。厨房で食べ物を奪ってきました。それとも、酒が必要ですか」

「少し、死にたくなった」


 そう言いながら、証拠となる手紙を無造作に渡してくるので受け取ってちらりと見る。辺境伯との予想通りのやりとりの内容だった。王太子の筆跡まであるようだ。先ほど手紙の束の中で見た。

 そんなに彼女を殺したかったのか。自分の王位を守るために。

 国王も王太子も凡人だ。凡人が竜や虎や女神を飼うことなどできはしない。


 大切な証拠なので国王の執務机の上に置いてから、ソファに横たわる彼女の顔を覗き込む。彼女の頭はひじ掛けの位置にあった。私は彼女の頭側から、ソファの側に膝をついて覗き込んだ。


「死にたいのですか?」


 彼女の紫の目は、私を見ているはずなのに虚ろだった。

 私に「間に合わなくて……すまない」と言ってくれたあの日の紫の目に輝きがない。

 そういえば、いつも私はこんな目をしていた。孤児院にいた頃、そして売られそうになった時。彼女に出会ってからこんな目はしなくなった。これは、すべてを諦めかけた目だ。


「普通に生きたかった。ただの王女として」

「そうなのですか?」

「そうしたら、家族に裏切られることなんてなかったはずだから。血のつながった家族が私の死を望むこともなかった。一番愛した人たちに裏切られることなんてなかった」

「あなたの部下たちは何と言っていますか?」


 彼女はそっと目を閉じる。しばらくまつ毛が震える様子を私は眺めていた。

 彼女は今、ギルモア商会のリメイクした古着のドレスを着て髪を大きく乱しているにも関わらず綺麗だった。


「何も、言ってくれない」

「左様でございますか」

「私は正しいことをしたのか? 兄が受けていた教育など私は受けていない。父と兄が裏切ったからと、牢にまで入れるのは正しいのだろうか。私は女王になどなれはしない。ただ、戦うだけなのに」

「国と大切な人たちを守るためでしょう」


 それは問いかけよりも独り言に近かった。私はそれ以上何も言わなかった。彼女の顔を何の邪魔も入らずに近くで眺めていられる時間だったから。


 沈黙に部屋が支配されかける前に、私は口を開いた。

 沈黙で満たされてしまったら、私の心も後悔で満たされてしまう。適切な距離を保つべきだった。彼女の歩いた道を遠く離れた後ろから歩き、地面に頬を当て触れるだけで満足するべきだった。


 彼女の側にいると、私は途端に強欲になる。あなたの影で良かったはずなのに。こんなにあなたが家族に裏切られて傷つくなんて。どうせ、人間なんてくだらない、平気で裏切る存在なのに。血のつながりなんて何の意味もない。


「死なないでください、彼らも悲しみます」


 あまりにも心がこもらない声だった。だって、そんなことを私が言うのは傲慢だから。

 彼女の目に相変わらず光は戻らない。


 フレイヤ・ウィンナイト。

 戦争を司り、闇を切り裂いて打ち勝つ私の美しい女神。九年前のあの日から、あなたは取るに足らない私の光だった。


「なんて、平凡で陳腐なことを言うと思いましたか」


 彼女の目がゆっくり動いて私を捉えた。そのことに仄暗い喜びを感じてしまう。


「あなたが死んだら、最高級の絹を探して遺体を包みましょう。もしあなたが爆薬で死んでバラバラになっても、指先一つどこも欠けることなく探し出して」


 どうしてあなたは有象無象の命や私の命を救っておいて、自分の命をたかが家族と辺境伯に裏切られただけで粗末にするのか。どうして、取るに足らない私に謝ってくれるほど優しいのにその優しさを欠片も自分に向けないのか。


「天気のいい日に、小舟にあなたの好きな花を敷き詰めてあなたを乗せて川に流しましょう。そうして沈めます。私しか知らない場所で。そして私も死にます。あなたと同じ場所で」


 もしあなたが死ぬなら私も死のう。だって、私はあなたの影なのだから。

 彼女は黙って私を見ていた。私も彼女から一瞬たりとも目を離さない。物音もせず、外は暗く部屋には僅かな明かりが揺らめいている。


 この世界に彼女と二人きりになったようだった。

 他の人間など存在しないような、そんな世界。そうだったら、どれほど良かっただろう。

 私は猛烈に渇きを覚えながら、口を開く。彼女の心臓を刺せる言葉を私は持っている。


「もしもあなたが死ぬなら、私はあなたを許さない」


 彼女は救世主意識が強く、すべてを救いたいということを分かっていた。だからこそ部下も、護衛騎士も、トムのことも彼女は悔いていた。彼女をいつも突き動かすのは救えなかった罪悪感。自分を決して許すことなく地獄に堕とし、他人だけを救って許し続ける彼女へ。


 私の言葉に何を思ったのか。

 表情を変えることはなかったが、彼女はそっと手を伸ばして私の目元に触れた。目元をしばらく撫で、頬に移り、唇を撫で、翡翠のイヤリングを掠める。最後は私の輪郭を確かめるようになぞって彼女の手は離れた。


 それきり、彼女はまた目を瞑ってしまう。

 私から彼女に触れることはない。エスコートする時、馬車の中から運ぶ時、先ほどソファに抱え上げた時、必要な時だけだ。

 彼女は私が気安く触れていい人ではないのだから。


 それでも、今はまだ。この世界に二人だけで存在したかった。


 彼女の顔を覗き込んだ体勢で一瞬目を瞑る。瞼の裏にはトムがいた。

 あの日のトムではない、なぜか孤児院で最初にあった頃の小さなトムだ。彼はボロボロの毛布を持ってこちらを見ていた。


 私だって許していない。

 あの日、彼に一瞬でも「体調崩すなんて面倒な奴」「早く死んだらいいのに」と口には出さずに思った自分を。

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